遠心的に、見えない力
日本の若手作家を紹介することで、現代の表現の一側面を浮き上がらせるグループ展「MOT アニュアル」。今年のテーマは「透明な力たち」。ここでの「力」とは物理的なものだけではなく、社会的、経済的、制度的、電子的、心理的なものを含み、私たちの生活を取り巻く「見えない力」をモチーフとして扱っている5組の作家それぞれの試みを展示していた。計測、実験、観察、考察を繰り返す科学者の知識生産行為に近接させる設計、そして遠心的に作家を紹介する構成。本稿は、展示全体の構成を読み解くことで、本展が切り開いていた地平を示す。
まず視覚的に特徴のあるメインビジュアル。デザイナーの森田晃平がフーコーの振り子や化学式、チャールズ・ダーウィンによる系統樹のスケッチ、深層学習のダイアグラムといった理化学のモチーフをもとに制作したアイコン・グラフィックは、自然科学の展示に足を踏み入れたような印象を与える。集合体として展示会場入り口壁面に大きく掲示されるとともに会場ハンドアウトに散りばめられたアイコンたちは、グループ展でありつつ探究を進める個々のアーティストたちを表象していた。加えて、会場で最初に目にする作品、手のひらに乗るサイズの送風機によってクルクルと台の上を周回する片岡純也+岩竹理恵の《回る電球》(2020)が簡易な物理実験を想起させ、壁の裏からは何やら機械装置が動いているらしき音が聞こえる。
歩を進めれば予想通り実験器具のような物たちがあちこちで独自のリズムを刻んでおり、LEDリングライトが回転というアナログな方法で人体を0と1のデジタル情報に分解している。科学とアートの交わりを日常的なプロダクトに展開していく清水陽子の展示空間には、ビーカーやシャーレ、実験サンプルのようなオブジェが机の上に配され、Goh Uozumiの作品群は身近にあるデジタル情報とそのプロトコルを、科学博物館の体験コーナーのように、鑑賞者自身の身体とデバイスを通して知覚できるような空間をつくり出していた。中島佑太の《家族のルールをつくる(あたらしいせいかつようしき)》(2020〜)は、各家族が自身でつくったルールを試し、省み、変更を加え再度実践する過程を──ふと現れる「あたりまえ」を疑う緊張感とともに──共有し、久保ガエタンの作品群は、突然の揺れや、破壊的な/聞こえない音という触覚的刺激、それらを可視化するために人類がつくり出した様々なオブジェによって博物館的な空間を形成していた。
自然科学のアナロジーに加え、展示空間構成のゆるやかさによって、「解」を追求するのではなく「試み」を繰り返す作家たちの振る舞いを、身体的に覚知できるようにしていた。出入り口の順路は定まっているのだが、各部屋の中では鑑賞者は行ったり来たりすることを誘導され(例えば、久保の作品空間は何が揺れ、何が音を発し、どのように映像とリンクしているのか1ヶ所からは把握することができず、《あっちがわとこっちがわをつくる》(2020〜)は前の部屋に戻ることで「あっちがわ」が想像できるようになる)、鑑賞者が辿る1本の導線というものは設定されていない。直線的に進まず、うろうろとできる配置/構成は、ひとつの解へ向かうのではなく丁寧な観察から導き出された疑問を巡るアーティストの試みと重なる。現代美術の動向に詳しくない一般の鑑賞者も容易に楽しめ、若手作家たちの感性を感じることができただろう。
ある程度のヴォリュームがありつつ、遠心的にたどりうるアーティストの感性。求心的なテーマのもとにそのほかを除外していくことで、あるスタイル(様式)に代表させる作家像/時代性を立ち上げる手法とは異なるあり方は、作家の全体像を紹介できないグループ展において重要なのではないか。数回の個展を開き、国外でも活動する彼女/彼らはある一定の方法論や観点を見出しつつも、今後ほかの表現方法へと展開していく可能性もあるだろう。展示室を回遊してきた筆者は、突如として現れる揺れ(久保の作品もそうだが、展示を鑑賞したのが、福島県沖地震がおきた[2月13日、最大震度6強]次の日であった)を体感した後で、初めの部屋で回り続けている電球に再び出会い、ほっとした。点としての終わりと始まりがないクルクルと回る電球のような展示全体の回遊性は、エスカレーターを降りた先にも続いていくような感覚を与えていた。力強いテーゼによってではなく、ありうる創造性の可能性に開き、緩やかな構成によって絶えず変化しているアーティストたちの試みを日常生活と接続する良いキュレーション(=見えない力)であった。
しかし同時に、水平な展示構成は、平板なジャンルのサンプル展示のように見える危険性とも向き合わなければならない。キネティック・アート、サイエンス×アート、データ・ビジュアリゼーション、ワークショップ型インスタレーション、歴史資料と映像インスタレーション。椹木野衣が『日本・現代・美術』(1998、新潮社)のなかで、「成熟したジャンルも成立しえない『場所』に、隣組的な筒抜けの無媒介な横断があったとしても、そのようなたかだか生来の慣習でしかないものが、なにか危険であったり冒険的であったりするはずがない」と、日本の現代美術が生まれる場所の特性を指摘してから20年以上も経った現在、同じようなアプローチを用いる同世代の作家は複数現れ、一定のジャンルを形成しているようにも見える(*1)。が、各作家の差異はありつつも「群」や「類」として見え、既存のアートのボキャブラリーに収まってしまう危うさも見過ごすことはできない。同じ館内で同時開催されていた石岡瑛子展で見せつけられた圧倒的な質と量のクリエイティビティと比較すると、若手アーティストたちの試みには収まりのよさや既視感を感じたことは否めない。説明できない爆発力、圧倒される創造力。これらをアーティストに求めること自体を批判することは必要であるが、同調圧力が強く平準化する日本の傾向(見えない力)に飲み込まれ、言ってしまえば似たり寄ったりの「アート」を産出していくかどうかは、今後の彼女/彼らの活動を見ていくことで判明することだろう。
*1──キネティック・アートでは毛利悠子、久門剛史、Nile Ketting、サイエンス×アートではAKI INOMATA、三原聡一郎、やくしまるえつこ、データ・ビジュアリゼーションでは真鍋大度、木本圭子、黒川良一、ワークショップ型インスタレーションでは橋本聡、富塚絵美、歴史資料と映像インスタレーションでは田村友一郎、荒木悠などが挙げられるだろう。
*本文ならびに脚注中の「データ・ビジュアリゼーション」という表記について誤りがありました。正しくは「ニューメディア・アート」です。お詫びして訂正します(2021年4月28日、編集部)。