リボンの起源
以前から、岡本太郎のパリ時代の絵に頻繁にリボンのような流体が現れることの背景がなんなのか、わからずにいた。初期作品だけではない。このヒラヒラとしてどこにでも忍び込む厚みのない布のような形状は、やがて真紅に染まるようになり、あの《太陽の塔》(1970)の両脇にもしっかりと刻印されている。《太陽の塔》は頭頂部の黄金の首が胴体から飛び出しており、その断面はすっぱりと切り離されていることから、そこから流れ落ちた供犠の鮮血を想像したこともある。
あるいは、その《太陽の塔》の地下に据えられ、長く行方知れずの《地底の太陽》(2018年の内部公開の際に再制作された)は、左右にやはり長くたなびくリボンのような形状のものを(太陽のコロナだとされている)まとっており、それだけでなく、顔が包帯を思わせる布(?)によって何重にも覆われているように見える。いずれもリボンに発するかのごときこの形態と動きは、岡本太郎にとってそれほど大きな意味を持ち、生涯にわたって付きまとった。
その太郎がパリ時代に当初、アプストラクシオン・クレアシオン協会で活動していたことはよく知られている。だが、その際にとりわけ親しく交流した画家、クルト・セリグマンについては、これまで長く詳しいことが伝えられずにいた。本展は、このクルト・セリグマンと岡本太郎を同列に扱うことで、セリグマンがどのように太郎に影響を与えたか、かつまたその影響が深く強く、後に至るまで長く尾を引いたかについて、詳細な資料の精査を通じて紹介している。
先にアプストラクシオン・クレアシオン協会が2人の出会いの場であったと書いた。が、実際には、セリグマンは先進的な方法として純粋な抽象を目指していたわけではなかった。むしろ、彼の生まれ故郷であるスイス、バーゼルの古式に倣い独自の半具象表現に達していて、そのことで逆に協会とのあいだには齟齬があった。
本展の図録に「私の全幼年期は、(…)バーゼルに不滅の痕跡を残した『傭兵』という時代がかった理想に染められていた。紋章、甲冑、[帆や旗を上げ下げするための]揚げ綱、ひだのある衣服、
実際、セリグマンは同協会と距離を置くため、アプストラクシオン・クレアシオン協会とは別にネオ・コンクレティスム(新具象派)を唱導した。そして、この考えに共鳴したのが、若き太郎だったのである。またネオ・コンクレティスムは、その基底にあるのが先にふれたとおり、近代以前の中世の様式であることから、抽象といってもおのずと近代芸術である以前の歴史に対し求心的な性質が強く、シンボル化された具象も含む複数の形式による合成からできていたから、おのずと具象と抽象の両側面を備えることになった。
それは一面ではシュルレアリスムと重なるものであったから、セリグマンも急速にブルトンが主導するシュルレアリスムに接近していくことになる。だが、すでに述べたとおり、セリグマンの持つ合成性は、もともと20世紀の実験芸術に由来するものではない。おのずとたもとを分かつことになるのだが、本展では、のちに太郎が唱えることになる対極主義の最初の萌芽が、ここにあったのではないかと提起している。対極主義が、具象と抽象の緊張ある共存を主張していたことは、言うまでもない。
もっとも、この点でセリグマンと太郎の、例えば対極主義の代表作と考えられる《重工業》(1949)や《森の掟》(1950)との接点は、あまり感じられない。戦後に太郎が次々と発表した一連の絵画は、はるかに直裁的でコミカルでさえあるからだ。これら太郎ならではの画面に特有の痙攣的でさえある
これは、顔のない人物が胸に大きな赤いリボンをつけ、たくましい右腕にきつく紐を巻いてギリギリと絞り上げている構図だが、その姿は先に引いたセリグマンの一文に出てくる「傭兵」のように見えなくもない。顔を布で巻いて判然とさせない手法も、セリグマンの典型的な作風を思わせる。その点では、まだまだ手探りであったこの時期に、太郎が実際に絵画を描くうえでの様々な造形状のモチーフが、セリグマンに由来する可能性は十分にある。
2人は第二次世界大戦によって居場所を分かち(セリグマンはアメリカへ、太郎は日本へ)、以来、ついに再会することはなかったけれども、手紙を通じてのやりとりはその後も長く続いた。セリグマンが新婚旅行で日本を訪ねた1936年には、父・岡本太郎、母・かの子の助けを借り、日本で初めてシュルレアリスムの流れを汲む画家の個展としてセリグマン展を実現している(三越百貨店)。セリグマンも力及ばなかったとはいえ、戦後に太郎がニューヨークで個展を開く際、渡米できるよう各所に働きかけるなどして尽力している。
1962年、ショットガンの暴発による不慮の死でセリグマンがこの世を去ったのを伝えられた太郎が、その場で号泣してしまったというのも、2人の深い関係を物語る。これまで太郎のパリ時代の盟友というとバタイユの名が真っ先に挙がり、事実、弁証法を転倒させた根源への肉薄に象徴されるバタイユの影響(とりわけ「アセファル(=無頭人)」での頭脳と生命の価値転倒)は絶大であったけれども、本展を機に、今後はセリグマンについてもその影を見極める必要があるだろう。
ほかにも本展では、イェール大学に所在するセリグマン・アーカイヴが検証され、太郎を媒介とした日本の新聞社とセリグマンとのやりとり(読売アンデパンダンの立役者、海藤日出男との書簡も含む)が世に出されている。その結果、日本に初めてポロックやロスコを紹介した「第3回日本アンデパンダン展」(読売新聞社、1951)や、「アンフォルメル旋風」を巻き起こした「世界・今日の美術展」(朝日新聞社、1956)でのアメリカからの主に抽象表現主義の作家・作品の選出が、セリグマン主導で行われていたことが判明している。その後の日本の戦後前衛美術の行方から振り返るに、セリグマンという、日本ではほとんど馴染みのない画家の存在は、太郎のみならず、多くの美術関係者に多大な影響を及ぼしたことになる。
本展では当初、セリグマンの実作が多く出展される計画だった。太郎の作品との会場での直接的な比較が、コロナ禍で作品を日本に送り出すのが難しくなり、実現しなかったのは大変残念なことだ。だが、本展はそれでもなお初期太郎の表現衝動のきっかけについて、多くの示唆がある。
*1──グラジナ・スベリテェ「岡本太郎とクルト・セリグマン│呪術的な明日の神話」(横山文子訳、本展図録97頁)
(『美術手帖』2021年2月号「REVIEW」より)