コロナ禍、みちのおくと離島で
新型コロナウイルス感染症の蔓延で地方の芸術祭が次々と延期・中止となるなか、独自のやり方で開催を実現する事例が見られるようになってきた。今回はそのうちの2つ、「みちのおくの芸術祭山形ビエンナーレ2020」と「さどの島銀河芸術祭プロジェクト2020」を取り上げたい。
前提となる地理的な特性がまったく異なる2つの芸術祭が、それでもコロナ禍のもと、先んじて開催に踏み切ったという点では、何かの接点があるのかもしれない。あるいはそれは、盆地と離島という閉鎖形であることで外に開かれるという、近代化以前の日本列島の地域形成と関係があるのかもしれない。ただし、これについては結論を急がないことにしよう。今回、この場で注目したいのは、山形ビエンナーレが全面的なオンライン化を決定し、ネットを通じた
こんなふうに書いてしまうと、全面的にオンライン化する芸術祭と、検査の導入でオンライン化を乗り越えようとする芸術祭という対照性でとらえられてしまいそうだが、実際には、2つの芸術祭のあいだには、単純にそのような対比でとらえられない共通性があり、私自身の関心もそこにこそある。どういうことか。
山形ビエンナーレで私がもっとも注目しているのが、全体で7つあるプロジェクトのうちのひとつ「現代山形考〜
このような試みを、わずか一ヶ月に満たない会期で実現するには当然、無理がある。また、当初はそれ自体が山形の歴史を凝縮している文翔館(旧県庁舎・県会議事堂)で実現するはずだった展示(その意味では、まさしく山形を中央の分所として位置づける施設のなかでその相対化を目指すはずだった)も、コロナ禍で実現が不可能となってしまった。しかし、仮に実現していたとしても、芸術祭が限定的な「会期」でくくられるかぎり、イベント的な成果を超える持続性を維持するのは難しい。そこで本プロジェクトが打ち出したのが、展覧会、もしくは芸術祭の根底にある「会期そのものを乗り越える」という方向性である。具体的には、文翔館での展示を次回ビエンナーレの開催が予定される2020年に再設定し、そこへと至る、もしくはそれをも通過点としてとらえる。そして、雷神社の風神雷神像や藻が湖伝説、さらには新たに別の文化財の発掘や伝承との接続を果たすことで、会期という枠では決して得られない、新たに編成され直したヴィジョンや未知の(しかし必然性のある)出会いを、無期限でネットワーク化していこうというのである。
こうして考えてみたとき、今回は大学の構内での展示に限られ、一般に公開されることなく終える展示も、無期限の会期(?)のなかでは、逆にそのなかで意味を持つ一期間の試みとして位置づけ直される。それだけではない。無期限の会期という考えのなかでは、新型コロナウイルス感染症の蔓延期間さえ乗り越えられるかもしれない。それだけの継続への熱意と好奇心が本プロジェクトを突き動かしていることは、週末ごとに開かれたオンラインでの対話の公開や、公式サイトとは別に設けられ、生き物のように変成しつつある特設サイトを見ると、手に取るように伝わってくる。
この試みと、距離や場所を超えて連携し、響き合うように感じられるのが、さどの島銀河芸術祭での宇川直宏&DOMMUNEの取り組みだ。具体的には、やはり会期という枠を超えて実現しようとしている「LANDSCAPE MUZAK」と題された継続的プロジェクトである。このプロジェクトを通じ、宇川は佐渡を訪れる音楽家と、島の記憶や伝承を残す各所をともに訪ね、島に固有の音を探索する経験をともにし(つまり「濃厚接触」し)、そこからつくり出されたオリジナルの音楽を島に刻む音響モニュメントを、島内に隔年ごとインストールしていこうとしている。そう、これも「現代山形考」と同様、会期という枠を根底から乗り越えることで、コロナ禍で大きな壁に突き当たっている「芸術祭以後の芸術祭」を構想しようとする試みと考えられるのだ。
その第1弾として島を訪れたのが、ミニマル・ミュージック(本人はこの語を好まないようなのだが)の創始者のひとりとして音楽史に名を刻まれるテリー・ライリーであった。そのリサーチの段階でコロナ禍が世界を包むと、ライリーはアメリカへの帰国を延期し、魂に残る経験を与えてくれた日本列島にとどまることを選んだ。その結果、外国からアーティストが来日して開かれる展示やライヴがほぼ全面的に不可能になっている現行下で、本格的なモニュメントの設置は本開催の来年のことになるが、そのプレイベントとして、ライリーのライヴ(会場=北沢浮遊選鉱場跡、秋のお彼岸中日、午前5時より、参加者88名限定)が、2020年の秋に佐渡という離島で奇跡的に実現することになったのだ。
もっとも、これはアーティストとの濃厚接触を大前提とするプロジェクトでもある。オンラインでも、画面から佐渡の景色や音はモニターやスピーカーを通じて流せるかもしれない。けれども、作曲の動機となるような包括的な体験を得るには、来島し、親密に行動をともにするしかない。しかもライリーは82歳の高齢で、万が一感染すれば命に関わる恐れもある。そこで導入されたのが、ライヴの観客も含め、すべての接触者にPCR検査での陰性を証明してもらうという条件であった。これには賛否あるかもしれない。実際、私もこのために初めてPCR検査を受けたが、陰性と結果が出るまで心がざわついた。けれども、会期無期限(無際限?)という新たな芸術祭のあり方のなかでは、それもまた長い時間をめくる頁の一コマにすぎないように思えてくるのだ。
いずれにしても、「密」になればなるほど好条件とされ、観光の活性化や経済効果ばかりに焦点が当てられ、その成否が問われるなら、平成の成功モデルであった国際芸術祭が大きな岐路に立たされるのは、誰の目にも明らかだ。翻って言えば、「盆地」や「離島」は、会期無期限化や完全PCR検査の実施のようなラディカル(根元的?)なスタイルにとって、かえってそのコンパクトなサイズにおいて、意外な利点を持つかもしれない。
(『美術手帖』2020年12月号「REVIEWS」より)