mode in the end
ジョン・ケージが1993年に構想し、自らの作品として発表した展覧会《ローリーホーリーオーバーサーカス》の原題を、私は“Rollin’ Holy Over Circus”だと勝手に思い込んでいた。正しい原題は“Rolywholyover A Circus”であり、英語の正しい発音や冠詞の「A」の音を表すカタカナが消えたタイトルの長音符は語調を整えはするが、本来の意味を剥奪し、新たな意味を与えることはない。だが、別に無意味な語となったわけでもない。
エレキギターやエレキベースに代表されるアンプを通した弦楽器のハウリングは、弦やボディの振動をピックアップが検出することで起こる現象で、それゆえに、楽器を掻き鳴らした状態でアンプに近づけるとハウリングが発生する。その音は掻き鳴らした本来の音から変質し、ときに聴くに耐えないが音と呼ぶにほかないものである。両者はともに翻訳のために行われる往還のなかで意図的に脱臼され、ダブついた存在である。《ローリーホーリーオーバーサーカス》と発音する長音符の間、ハウリングした音がアンプから発され消えゆく間を操作することはできるのだろうか。
中川裕貴『アウト、セーフ、フレーム』は、中川がかつて研究していた音脈文凝がどのようなものかという語りから始まる。中川が舞台袖に消え、語りだけが会場に伝えられるなかで、舞台袖から俳優が現れ、日本語を逆再生したセンテンスを発話し、舞台袖にはけてゆく。中川の語りは俳優のまとまりのないセンテンスの発話と融解していき、語られる文章の意味は遠くのほうへ追いやられ、言葉は音と意味の間を行ったり来たりする。
客席通路を行ったり来たりするのは、俳優たちが引っ張る大型のスピーカーで、壇上ではチェロ、バイオリン、ピアノで構成される「中川裕貴、バンド」が演奏する。各々のリズムが各々の時間軸で展開される楽曲を、音の鳴る原理的な仕組みである震えの誇張表現だととらえてしまうのは、先ほど言葉と音の揺れを聴いたからだろう。揺れによってふたつを指し示すものの領域が曖昧になるが、ひとつにもならないし、別の新しい何かになるわけでもない。それを共存かと言われたらたぶん、そうでもない。
天井に吊られているサイボーグチェロがダイオードを発光させながら、モーター音やノイズを発する。サイボーグチェロに搭載されているドラもたまに鳴る。この自動演奏に合わせて中川は、チェロのボディを打楽器のように自らの手で叩いたり、弓で弦を叩く。中川のチェロを叩く手つきの湿っぽさ、叩いているのだけれどなぞっているような手つきにこもる熱は、中川とチェロの間を往還する音として発散され、天井から吊られたサイボーグチェロとの往還も含めた楽曲として私たちに伝えられる。
往還することで増幅・変質をするのは、本コンサートにおいて演奏だけでないことは舞台装置・演出から見て取れる。視覚に訴えかける技術を用いていることには間違いないが、かといってそれが視覚を揺るがす効果になるかというとそうでもない。
中川は「会場そのものを再生」するために、サウンドデザイン/ライブカメラを担当する荒木優光の監修であらかじめ無人の客席や舞台などにマイクを立てて、会場の空間全体をコピーするように録音を行っている。そのいっぽうで荒木は、舞台の中央に立つひとつのスピーカーにフォーカスを合わせ、舞台上に用意されているモニターにスピーカーを映し出す。我々が視認できるスピーカーはひとつから複数となるが、そのうち三つは正しく機能しない。同じ機能のものが増えることが増殖であるならば、モニターのスピーカーは、「◯◯の××に対する気持ちが《増幅》する」という比喩的意味で使われる増幅の役割を果たす。イメージの複製によりどこかで何かが鳴っている気持ちの増幅だ。
音が、イメージが、あらゆるものが増幅し、変質するまでの時間と距離は、終わりを記号的に示していくポーズでもある。ただ、それは楽曲や演奏者が必要としているのではなく、聴取が必要とした身振りであるため、直接私たちが出会えるライブでは、どのように曲やライブを終わらせるかの処理に聴取は無意識に注目するし、ライブにおいて聴取を含めた空間を鳴らす演奏者は「終わりのための手つき」を身体化している。それはアレンジとも、演出とも、ストーリーとも、余韻とも呼ぶことができる。
中川が試みた終わりの手つきは、声と音、自らの身体と楽器という道具、演者と観客、会場とそれ以外の場所、演奏している時間とそれ以外の時間などの曖昧だった「ここ」と「そこ」の地点を探し出し、確かなものとしてまさぐることだ。「ここ」と「そこ」について名前を与えたり、関係性を与えてゆくオペレーションは、地点と距離を明らかにしたことにより、さらにダブつくものを生んでゆくのである。