All decisions are alright.
フェリックス・ゴンザレス=トレスの作品を1000ヶ所に設置する「展覧会」が現在行われており、TwitterやInstagramなどのSNSで「#fgt」と検索すると、その展覧会の様子を見ることができる。本展は、フェリックス・ゴンザレス=トレス財団と、その管理母体であるアンドレア・ローゼンギャラリーとデイヴィッド・ツヴィルナーギャラリーによって企画されたものだ。
企画者であるアンドレア・ローゼンは、フェリックス・ゴンザレス=トレス財団のホームページで本展が成立する条件を挙げている。会場となる1000ヶ所を用意する人たちを指名すること、選出された彼らは自らの手でフォーチュンクッキーを用意し、作品をつくらなくてはならないこと、6週間の会期を終えた作品兼展覧会は両方の役割を終え、作品と呼べなくなること、指名された彼らは本展に関するテキストを提出すること、などである。
このように1000ヶ所の会場となる場所と作品を用意する人たちに多くの負担を強いる本展は、全方向からの参加や交渉を許し、双方向の交流により完成させていく「プロジェクト」ではなく「展覧会」であることにこだわろうとする。展覧会の形態は様々だが、決定的に逃れられない条件がある。「選んでしまうこと/選ばれてしまう」ことである。また、たとえ何かを選んでいないと言い張ったとしても、「選んだ/選ばれたものの結果」だと見られてしまうことである。本展は「展覧会」と名指され、またアートワールドのなかから会場・人を選ぶ点においてきわめて構造的権力に依拠しているもので、スマートとはけっして言えないが、ゴンザレス=トレスの作品や彼の来歴を鑑みると、複雑さが新たな複雑さを喚起させてゆく現在に、彼をぴったりなかたちで復権させていくようにも思われる。
彼の作品の多くは、エイズで亡くした恋人の永遠の不在によって逆説的に照射される生と自分もエイズで死ぬかもしれないという死の予感によって解釈することができる。例えば、本展作品のオリジナル版である《Untitled(Fortune Cookie)》(1990)は、およそ1万個のフォーチュンクッキーの山を角につくり、鑑賞者がクッキーを持ち帰れるという作品である。本展では、240個以上1000個以内のクッキーを山積みにすることが条件とされており、「可能な限り楽観的な占いが多く含まれたフォーチュンクッキーを使用するべきだ」というゴンザレス=トレスの言葉も条件のひとつとして組み込まれている。
クッキーの山は、鑑賞者が持ち帰ることにより減っていく。生殖や自己増殖の機能を持たず、細胞を利用することで自らを複製するウイルスがオリジナルとレプリカントの区別もなくして、いつの間にか体内を支配していることと、昨日まで確かにそこにいたのに今日にはいない恋人の存在感のメタファーとして作品は機能し、個人的なことを社会的・政治的なことにすり替えようとしている。
個人的なこと/政治的なことを対立させず、イコールで結びつけようともしないのは、作者も鑑賞者も良い運勢のクッキーを選ぼうとするためだ。マテリアルにはマテリアルとしての機能を全うさせ、作品に込めるコンテクストはマテリアル以外のアトモスフィアな部分に投げることで、彼はあらゆる排中律を避けながらも社会のなかにあるたくさんの問題をつなぎ合わせ、自らの問題として提示することに成功している。
エイズによって生じた社会不安と偏見の時代に生まれたマスターピースを、COVID-19によって続いている社会不安と偏見の時代に重ねあわせることで、再び作品の意味は強固になり、鮮やかにもなる。本展の出展作品に漂うアトモスフィアは、もはや1990年のオリジナルとはまったく異なる質感のものである。不治の病ではなくなり、公の脅威でもなくなったエイズの記憶をCOVID-19という別の病で塗り替えようとするこの試みは、もうこの世にいない作家が望んだかどうかは別としても、本展のモチーフとして企画者によって選ばれたこの作品には、新たにそういう意味が付与されてしまっている。
さらに、白人警察官によって殺された黒人市民の事件を契機とした世界中を巻き込む大規模なレイシズム反対の動きが主催側の予期できないところで動き始め、キューバ生まれの作者(*1)がつくった作品という側面が考察可能なものとして照射され始める。
ゴンザレス=トレスがキューバに生まれたことや、エイズが未知で不治の病とされている時代に、同性愛者である自分がかかってしまうこと、また、生まれや性嗜好で自分を語られたくないのに作品を読解するときの補助線とならざるを得ないことは、望まれずに選ばれ、拒否することも否定することもできない。また、私たちが病気になることや、たとえ直接的な当事者でなくても歴史や国家が残し続けている諍いに立場が選べない状態で立ち会うことも同様であり、徹底抗戦を選ぶとしても一度は必ず受け入れるしかない。
そういった「時代」のなかで、すべての個人がどのようなアクションを起こすか、と、表現者が表現することや表現した成果は必ずしも一致しない。すべては断絶を見せながらも果てしなく巻き込みあい、一続きなのである。だとしたら、作家を選び、条件を選び、観客を選び、それを伝える言葉を選んでいく「展覧会」という構造は、表現者という職業と個人を背負う人々に何をしてあげられるのだろうか。
*1ーーフェリックス・ゴンザレス=トレスは1957年にキューバで生まれる。アメリカ合衆国の自治領であるプエルトリコで美術を学び、ニューヨークへは79年にやってきた。カール・アンドレやロバート・モリスなどのミニマル・アート、コンセプチュアルアートのアーティストたちがAWC(芸術家労働組合)を結成して、黒人やプエルトリコ移民アーティストの権利を訴えたのが69年の出来事である。ゴンザレス=トレスがカール・アンドレやロバート・モリスの作品から影響を受けたことはよく言われているが、このような側面をどれほど彼が知り、意識していたのか、どのように考えていたのかを筆者は想像することしかできない。しかしながら、こういった側面を無視してゴンザレス=トレスやコンセプチュアルアートを語ることはできない。