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2020.3.27

語るのは人か、あるいは街か。檜山真有評 高山明《個室都市東京2019》《続・前橋聖務日課−あかつきの村ウォーク》

演劇ユニット・Port Bを主宰し、演劇的手法により実際の都市を使ったパフォーマンスなどを手がけてきた高山明。その作品における都市と人間、物語の関係性をどうとらえるか。昨年発表された2つの作品から、キュレーターの檜山真有が論じる。

檜山真有=文

《続・前橋聖務日課−あかつきの村ウォーク》(2019)より © Port B
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「街は劇場になりたがっている」「本当に?」

 私たちが送る都市での生活がますます「演劇」らしく思えるのは、災害や病などの非日常をカタルシスとしてとらえ、そのために起こるシステムの齟齬によってでしか、団結する快感を味わえないと感じているからではないだろうか。個人として生活することと団結することを往来せざるをえない都市生活者である私たちは、ブレヒトが提唱した異化効果を生活のなかで何度も味わう。

 異化効果は、当たり前のことを、あたかも奇異的で未知なものであるかのように取り扱う手法だ。それは演劇ではないものと演劇を往来するための技術だとも言える。「演劇」が「生活」のなかに入り込むように思え、それを参照しようとしたときそこに溶け込むこの往来が自然になればなるほど、異化効果は発揮される。

 都市もまた、人工的なフレームと、人々の生活によって生まれてくるあらゆる偶発性の往来のなかでかたちを変え、つくられる。都市と演劇の相性の良さは、こういった偶発性をすべて包み込む寛容性と、そこにおける権力が近しい性質を持つからだ。

 高山明も巧みに都市と演劇の持つ性質を作品のなかに落とし込む。ここでは、高山が黒瀬陽平による展覧会「TOKYO2021美術展」(2019)で再演した《個室都市東京2019》と、アーツ前橋で行われた展覧会「表現の生態系 世界との関係をつくりかえる」(2019-20)の出展作品のひとつである、高山明/Port B+財団法人フランシスコの町あかつきの村《続・前橋聖務日課−あかつきの村ウォーク》(2019)において、選ばれた都市がどのような役割を果たし、我々に何を示唆するのかを論じる。

《個室都市東京2019》の展示風景

 まず《個室都市東京2019》では、観客はDVD視聴室を模したセットの中で作品を体験する。2011年に池袋西口で街頭インタビューされた人々の映像を鑑賞したのち、順路通りに進んでいくと別の会場に導かれる……。こうして同作が会場と会場を結ぶ役割を果たしたのち、別会場のもっとも奥で《個室都市東京2019》を観ることができる。暗い部屋に小さなモニターが置かれ、部屋の外から皆で鑑賞する。

 この作品に登場する都市、東京・池袋は、取材される人々を引き立たせる劇場の役割を持つ。このような比較的大規模な人口があってこそ成立する作品において、都市は劇場、登場する人々は俳優として設定することが可能だ。鑑賞者のみが人々の新たな役割を知り、ひっそりと演劇と生活を往来する。人と社会システムの力関係が均衡する都市だからこそ、異化効果が発揮できる条件が兼ね備えられている。さらに池袋がある東京は、東日本大震災を乗り越えたことで、それまでよりも非日常に敏感に反応し、違和感も飲み込み、日常に変えていく素養を身につけてしまっている。

《個室都市東京2019》より © 『個室都市東京』TOKYO2021

 かつて、寺山修司は、「あらゆる人間が俳優になり、あらゆる場所が劇場に成る」と言い、実際に俳優としての訓練を受けていない人を舞台に上げた。また、寺山は街の住民を巻き込みながら上演する野外演劇『ノック』(1975)を行うにあたって「街は、今すぐ劇場になりたがっている」とも発言した。寺山は演劇をこのようなかたちでつくることを社会参加のひとつのあり方だとも述べている。それは、ますます経済発展が見込まれていた都市のなかで個人を群衆のなかに埋没させないため、「わたし」が「わたし」でいるための、ひとつの抵抗だったと言えよう。《個室都市東京2019》においても、都市の中に潜む「俳優」たちが、明日の「俳優」はあなたたちよ、と語りかける。私ならインタビューに対してこう答える、と観客に考えさせることで、舞台と客席、都市と劇場はいまやその境界線を失いかけている。

 しかしながら、《続・前橋聖務日課−あかつきの村ウォーク》では、都市は劇場、登場する人々は俳優、といった図式を成り立たせることはできない。順路通りにQRコードを読み取りながら、不本意なかたちでボートピープルとして日本にやってきてしまった「サン君」とそのシスターである「佐藤さん」のエピソードを聞く。あかつきの村を歩きながら、彼らの日々を追体験する作品だ。

《続・前橋聖務日課−あかつきの村ウォーク》(2019)より © Port B

 経済発展も頭打ちとなり衰退するいっぽうで、人口も減少する都市、群馬・前橋で、無人駅の北原駅で、関東平野を見下ろし、赤城山を見上げるあかつきの村で、個人は群衆に埋没することはできない。作中語りかけるサン君も佐藤さんも、作品を体験する私もすでに、それぞれの「わたし」として剥き出しなのだ。舞台と客席、都市と劇場の境界線はすでに消失しており、ここでは異化効果は発揮されない。この作品で重要だと言えるのは人ではなく、都市である。

 私がもっとも注目したのが、高山が用意した「あかつきの村ウォークMAP」である。あかつきの村の地図のみならず、前橋市から関東平野までを網羅する簡単な地図と、公共交通機関であかつきの村へ行くための方法がいくつか紹介されている。ここで高山がアーツ前橋をめぐるふたつの「前橋駅」をどのように描写しているか引用したい。

 JR前橋駅は前橋の町の中心から南に歩いて10分ほどの場所にある。駅から北に向かって一直線に向かうけやき通りを歩く。駅から伸びてきた道は歩道橋のある五叉路にぶつかり、中心商店街は、駅を背にして五叉路の左前方のあたりにある。五叉路の左から2本目、群馬県庁から伸びてきた国道50号に入り、一つ目の信号を右にまがり、群馬銀行を左手に見ながら道を下ると、2013年にオープンした美術館、アーツ前橋がある。 

 アーツ前橋のエントランスを背に、左にまっすぐ向かうと、すぐに大きな道にぶつかる。そこを左に曲がり、しばらく歩くと中央前橋駅が右手前方に現れる。

 JR前橋駅からアーツ前橋に向かう道順が、執拗なほどに丁寧に描写されているのに対して、アーツ前橋から中央前橋駅に向かう道順は簡素だ。このことが示すのは、JR前橋駅が前橋市の外から来る者たちが利用することを想定した「よそ者」のための門であることだ。群馬・前橋にまったくゆかりがなくても、この文章を正確に読み解けばアーツ前橋にたどり着ける。それに対して、中央前橋駅の道順の描写は「すぐ」や「しばらく」など感覚に任せた描写が多い。

 あかつきの村の便利でない立地だからこそ生まれた時間の流れに踏み入るまでに、私たちは必要な移動のなかで部外者であることを痛感する。また、JR東日本というひとつの鉄道会社が関東平野を制覇し、あらゆる場所をまるですぐ近くにあるかのようにつないでいくことで自ずと生じる都市のヒエラルキーと、そこへ行くにはそれに乗るしかない、という絶望も、関東平野の広さとともに脳裏によぎる。

《続・前橋聖務日課−あかつきの村ウォーク》(2019)より © Port B

 高山は、作品を鑑賞するための場所へ向かい、家に帰るために必要な移動のなかで、都市に物語を用意する。帰る場所はそれぞれ異なるから、それぞれ別の物語を読むことになるだろう。この作品において、本当に物語が生まれるのは、それぞれがそれぞれの都市の声を聞くときだ。高崎線の車内にも、上毛鉄道の無人駅にも、群馬のあちこちにも物語は潜む。その都市の声を高山はつねに意識する。

 《続・前橋聖務日課−あかつきの村ウォーク》は、都市のなかのもうひとつの小さなユニットとして、テンポラリーなかりそめの都市としての劇場をつくりあげるのではなく、街を俳優と見立てて、雄弁に語らせる作品である。それは、これ以上都市を新たにつくったり、発展させたりしても人が流入しない現状においてできることでもある。私たちにできることは、街に語らせることで、人間の存在を浮き彫りにすることなのである。都市の傀儡となりつつある人間の復権は、どのような街においても人間がいると声高に叫ばせることなのだ。人々が「私たちはここにいる」ということを誇りにするからこそ、あかつきの村は作品たりえる自律性を持っているし、よそ者である鑑賞者が来ようとブレない姿勢を持つ。都市が語り始めたとき、人間は、雄弁な語りを行う俳優にスポットを当てる照明(ライト)であるとも表現できる。寺山の言葉を借りて言うなら、これから「街は、今すぐ俳優になりたがっている」。

《続・前橋聖務日課−あかつきの村ウォーク》(2019)より 撮影=木暮伸也