恒久設置の「その後」
1922年、帝都防衛構想における陸軍航空部隊の中核拠点として、この地に飛行場が開設された。日本陸軍の研究機関である陸軍航空技術研究所が置かれ、陸軍航空機の製造・改造を目的とした陸軍航空工廠も併設された。太平洋戦争下、ここは帝国陸軍航空部隊の研究・開発・製造の一大拠点となる。周辺には軍用機を製造する民間工場とその下請け工場が並び、それゆえ戦争末期には激しい空襲を受けた。
敗戦後、ここは接収されて米軍基地に転じた。米空軍極東司令部が置かれ、朝鮮戦争における極東最大の輸送基地として機能した。忘れてはならないのは、この米軍基地の周辺が「赤線地帯」として栄えたという事実だ。戦前は帝国陸軍のための遊郭として、戦後は米軍向けの「慰安所」として、ここには男たちの歴史とともに、女たちの歴史も刻まれている。57年の売春防止法施行後の赤線廃止まで、ピーク時には5000人ともいわれる娼婦がここにいたのだ(*1)。
55年、在日米軍はこの基地の拡張を日本政府に通達した。これに断固反対した住民らによる抵抗運動は10年以上続いた。紙幅の都合で詳細は割愛するが、ここでの住民運動は基地の拡張を1センチも許さなかったばかりか、返還にまでつながったという点で「勝利」をつかんだ。この「砂川闘争」は、安保闘争、全共闘運動の先駆けとして「学生運動の原点」ともいわれる。
基地の段階的返還は73年から実施され、77年11月にすべての敷地が返還された。そして米軍が去ったのち、ここは陸上自衛隊駐屯地、広域防災地、各官公庁、ホテル、オフィスビル、国営公園となり、94年には駅に近い区画の再開発が行われた。イタリア語で「創る・創造する・生み出す」を意味するFAREに、この地の頭文字「T」をつけ、「FARET(ファーレ)立川」と名付けられた。
そう、この地の名を立川という。ここは、帝国陸軍の中核拠点から米軍の極東戦略における重要拠点へと転じ、そして国土庁(現在の国土交通省)が推し進めた業務各都市構想の一都市となった。立川市は軍事都市のイメージを払拭するため、「アートのある街づくり」を掲げた。これを積極的に取り込むかたちで、東京都と立川市の要請を受けた住宅・都市整備公団東京支社都市再開部(現在の独立行政法人都市再生機構)は、「街歩きを楽しみながら、20世紀末の世界中のトップアーティストたちの現代美術コレクションを、いつでもだれでも、無料で自由に鑑賞」(*2)できるファーレ立川開発に着手した。公団にとって初のアート・プロポーザル・コンペが行われ、北川フラム率いるアートフロントギャラリーに作家選定から設置までが一任されることになった。
今年で完成から25周年を迎えたファーレ立川は、5.9ヘクタールの土地に100平方メートルの容積をもつ建築が並ぶ高密度地域である。ここに35ヶ国から海外作家49人、国内作家43人による109作品が設置されている。作品の内容においても作家の出自の面でも多様であることが意識されており、ディレクターの北川の言を借りれば、「コンセプチュアルアートからナイジェリアの民族衣装をまとったコンクリート製フィギュラーティフまで」(*3)ということになる。
ヴィト・アコンチ、ドナルド・ジャッド、トニー・クラッグ、ジョセフ・コスース、ロバート・ラウシェンバーグ、フェリックス・ゴンザレス=トレス、レベッカ・ホーン、マリーナ・アブラモヴィッチ、牛波(ニュウポ)、タン・ダウ、青木野枝、岡﨑乾二郎、河口龍夫、川俣正、白井美穂、白川昌生、関根伸夫、宮島達男らの作品がここにある。作家選定については、アピナン・ポーサヤーノンが「西洋のよく知られた(男性で、白人の)名前への傾倒は明白である。しかし現場を何度も歩いてみると、いかに北川フラムが注意深くアーティストを選定し、日本、アジア、南米のあまりよく知られていないアーティストに機会を与えているかがわかってくる」と評している(*4)。
この地の公共彫刻群の特徴はそのような多様性とともに、すべてが「機能」を有していることにある。一例を挙げれば、岡﨑、川俣、青木の作品は通風口カバーであり、ラウシェンバーグは駐輪場を示すサインであり、関根、アコンチは車寄せやベンチであり、コスース、アブラモヴィッチ、クラッグは壁面装飾である。公共空間の彫刻を見る者が抱くであろう「どうしてこの場所にこのようなものがあるのか? これは一体なんのためにあるのか?」という疑問に対し、「美術作品」だから、ではなく、「街の機能」を担わせることで答えたのだ。
北川はこれを「機能(ファンクション)を美術(フィクション)に」というスローガンで説明している(*5)。このようなコンセプトを推し進めるためか、区画内の作品にはキャプションが存在しない(*6)。あえて挑発的に言えば、作品としての固有性(作品名・作者名)が剥奪されているといってもいい状態にある。さらには、密集して作品があるため、細い路地や道路の脇などすぐには見つけられないものも多い。つまり、ここで問われているのは作品の自律性である。すべてが「機能」に還元されゆくなか、「公共彫刻」と「都市の装飾」の違いとはどのようなものかが問われている(*7)。
この問いの答えについては、実際にファーレ立川を訪れて体感していただきたいと思う。ここを訪れる際には、先述したようにキャプションが存在しないため、公式アプリをダウンロードすることをおすすめする。あるいは、立川市女性総合センター1階受付で4枚組のマップを手に入れることもできる。ここでマップを入手したなら、同センター3階の立川市中央図書館レファレンス室にも立ち寄ってほしい。作家全員分のポートフォリオと関連図書が網羅的に並んでいるからだ。そして、作家の自作解説を収めた書籍(*8)を手に取られたい。
この作家による解説はアプリやマップからはアクセスできないが、じつに示唆に富んでいる。例えば、屋外での常設展示自体がめずらしいフェリックス・ゴンザレス=トレスは、資本主義下の作品の永続性と真性性について批評的なテクストを寄せているし、白川による小論「公共彫刻は必要か」は重要な問題提起を含んでいる。関根は「ひとつ残念なのは、単にアートをばらまいただけという印象が拭いきれないことです」と、ファーレ立川に対して率直な所感を記している。また、当時PHスタジオチーフであり現BankART代表の池田修は「今回のプロジェクトは、美術が社会的に機能するかが問われているのではなく、社会的に機能しているものが、美術になりえるかどうかが問われている」と問題の本質を端的に指摘している。
さて、ファーレ立川ではこれまでに、2005~06年度と14~15年度に大規模な修復・再生事業が実施された。一時期は作品の損傷や電灯切れも目立っていたが、現在ではほぼすべての作品を本来の状態で見ることができる(*9)。毎年秋にはガイドツアーやトーク、清掃活動など参加型のイベントが開催されるほか、ツアーガイドは一年中行われている。特筆すべきは、97年に「ファーレ倶楽部」というボランティア団体が立ち上がり、無償でガイドを務めるのみならず、立川市から作品管理の一部を委託されていることだ。恒久設置ののち、どのようにそれらを保存、修復、活用していくか、その主体は誰なのかという観点からもファーレ立川は興味深い事例である。
しかし、109ものパブリックアートのなかで、冒頭に記したような立川という場所の固有性を伝えるものが存在しないことは残念に思える。ここがなぜ「ファーレ立川」として開発されたのか、立川市がなぜ「アートのある街づくり」を標榜するに至ったのか、そこには日本の近代と並走したこの土地の歴史が濃く影を落としている。けれども、あえてそれらへの言及を避けているように見えるのだ。東京藝大全共闘のリーダーであった北川の来歴を思えば(*10)、これは相当に「不自然」なことだといっていい。
いっぽう、ファーレ立川が完成した94年、新潟県で「ニューにいがた里創プラン」事業が立ち上がった。これが現在まで北川が総合ディレクターを務める「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」へと直線的につながっている。ここで北川は人工的な都市の機能としてのパブリックアート設置から、地方・地域・大地を舞台とした芸術祭へと大きく舵を切ったことになる。都市型の公共彫刻設置に限界を見たということなのかもしれない。つまりファーレ立川とは、作品が都市の機能に還元され自律性の解体すら見られるという点で、公共空間のアートの到達地点であり、そしてまたその潮流が芸術祭へと移行する切断地点でもあるのだ。
そのようなターニングポイントとしてのファーレ立川を歩くと、あるボリュームを有するものが公共空間に存在するということがどういうことなのか、深く考えさせられる。筆者が訪れた際、片瀬和夫作品の前でちょうどある工事が行われていた。これは「排除アート」化を施すのためのものだった(*11)。ここに腰を下ろすことはできる。しかし、ここで横になって体を休めることはできない。これを見て、次のように思い至った。道路脇や植栽内の作品もまた「ここで体を横たえることはできない/ここにとどまるな」という「機能」としてとらえうるではないか、と。もとはアメリカで失業者対策としてはじまったパブリックアート支援が、ともすれば浮浪者排除にもなる。これを風刺と言わずしてなんとしよう。
公共空間のアートの意義を問う主戦場は芸術祭に移行しつつある。しかし、それも林立し飽和状態にあるように思える。一部恒久設置作品が含まれる場合もあるとはいえ、芸術祭は一過性の「祭り」であるいっぽう、都市空間の公共彫刻はすべてが恒久的にその場にとどまるという相違がある。近年、戦後に置かれた公共彫刻の破損事故や、移転に伴う異議申し立てが相次いでいる。その意義についての再検討が急務だ。ファーレ立川という到達・切断の事例をその嚆矢としたい(*12)。
*1──西田稔『基地の女』(河出書房、1953年)
*2──https://www.city.tachikawa.lg.jp/chiikibunka/kanko/bunka/bunka/art/sakuhin.html
*3──北川フラム「街と森の美術の交響「ファーレ立川」の試み」『ファーレ立川アート通信』(住宅・都市整備公団東京支社、1994年)
*4──アピナン・ポーサヤーノン「コンクリートの森にパブリックアートを」『ファーレ立川アートプロジェクト』(現代企画室、1995年)
*5──北川フラム『ファーレ立川パブリックアートプロジェクト 基地の街をアートが変えた』(現代企画室、2017年)
*6──例外的にジョセフ・コスース、河口龍夫作品にはキャプションがある。また、アブラモヴィッチ作品にはキャプションが剥がされたとおぼしき跡がある
*7──筆者は過去に、日本における彫刻教育の起点に国家からどのような要請があったかをふまえ、彫刻と近代的都市の装飾の関係について述べている。詳しくは『彫刻1:空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』(トポフィル、2018年)を参照
*8──『ファーレ立川アートプロジェクト』。ただし、岡﨑乾二郎の自作解説は同書ではなく『ファーレ立川アート通信』に収められている
*9──ただし、河口龍夫作品は当初の作品形態を失っており、また宮島達男の作品も電気が付いていないなど、鑑賞そのものが困難になっている作品もある
*10──「北川フラム 運動も美術も、排斥ではなく協働を」図書新聞
*11──排除アートついては以下を参照。早川由美子「公園のベンチが人を排除する? 不便に進化するホームレス排除の仕掛け」。また、上野公園の一角では浮浪者を排除したのちに、東京藝大彫刻科などを主とした「優秀作品」の屋外展示が行われていることも付記したい。これも排除アートの一種と言えるのではないだろうか
*12──本文中で言及した「不自然さ」は、越後妻有アートトリエンナーレと瀬戸内国際芸術祭にも同様に見られると筆者は考える。いずれも北川が初回から最新回まで総合ディレクターを務める優れた芸術祭だ。しかしそこにある作品は、反体制的、アクティビズム的傾向を持つものは丁寧に除かれている印象がある。これに関連して、北川を「心の師匠」とする津田大介(あいちトリエンナーレ2019芸術監督)が、北川の仕事から何を継承・批判し、あいちトリエンナーレに望んだのか、という視点からの考察も必要だろう。また近年、ファーレ立川では新たな作品との関わりが生まれている。それはスマートフォン向け位置情報ゲームアプリ「ポケモンGO」による。アプリを通じた拡張現実内では、区画内の作品に別の意味が上書きされる。人と彫刻の新たな関係性が始まっているのだ