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REVIEW - 2020.5.20

長きにわたりポスターを支え続ける幸福とは何か。 塚田優評「9 Posters」

広告媒体としての存在意義を担うものとして、瞬く間に消費されては姿を消してゆくポスター。メディアの多様化とデジタル化が進む現代において、かつての重要性は失われつつあるだろう。イラストレーター山本悠による企画展「9 Posters」では、ポスターが持つ物語や形式、ポスターそのもの物質性などに焦点を当てる。ポスターの存在は、いったい何に支えられているのだろうか。本展を、視覚文化評論家の塚田優が論じる。

文=塚田優

展示風景より
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Endless Poster Wars

 TALION GALLERYで開催されている「9 Posters」は(※5月20日現在休廊中)、公共に向けられたものであると同時に個人的な収集対象にもなるというポスターの半ば矛盾した存在論を、リレーショナルな関係性への志向としてプレゼンテーションしたグループ展だ。企画発案者でもある山本悠の(出展者への呼びかけも兼ねたような)ステートメントが「心の中でも、部屋の中でも、だれかのどこかに貼り付き、そして、いつか剥がれてしまうような、そんなポスターを作ってもらいたい」と結ばれていることから、本展はポスターを、展示終了後も持続的なプロセスのなかで機能するコミュニケーション・メディアとして位置付けていることがわかるだろう。また、このことはポスターに一義的に要請される広告効果とは異なる、美的ないしは社会的な関心が入り込む余地があることもほのめかしている。

 「9 Posters」に参加した作家たちは、上記のような首謀者の要求に様々な方法で応答する。質感に訴求したり、物語性の付与や情報の操作などその手法は多岐にわたるが、ここで重点的に取り上げたいのは山本と秋山伸の作品である。山本による《私はスイカに桜を見せる》(2020)で印象的なのは、画面左側にあるグリーンの楕円の中に、9ヶ国語で作品タイトルが印刷されていることだ。ここで作者は、グローバル化する社会のなかで人種的な切り捨てを行うことなくメッセージを伝えるために多言語によるデザインを採用し、かつそれを図像的な要素に組み込むことによってキャプション的な説明臭さを排除している。そして同時にシンプルさを維持することで、現代におけるデザインが求められる倫理と、モダニズム的な造形を両立させた。このようにして本作は、観客とのコミュニケーションを行いつつも、付随するイメージそれ自体の印象を残そうと試みる。​​

山本悠 私はスイカに桜を見せる 2020 撮影=木奥惠三 Courtesy of TALION GALLERY
秋山伸 上《「9 Posters」のためのポスター Phase 2》、下《「9 Posters」のためのポスター Phase 1》(2020) 撮影=木奥惠三 Courtesy of TALION GALLERY

​ 秋山の作品は、こうしたポスターのコミュニケーション性をさらに拡張したものとなっている。それを促したのはステートメントの次の部分だ。

 ポスターをくるくると丸めると、細く長い筒になる。その筒の下端を両手でにぎり、構えてみる。ポスターを作ったみんなで集まり、ちゃんちゃんばらばらやり合うということをしたい。

 本展が、ポスターを貼って剥がされるまでの時間経過を孕むものとして認識していることはすでに述べたが、その役割はさらに拡大した解釈を施され、ここではちゃんばら遊びの道具としての転用が提案されている。この「ポスター」と「ちゃんばら」をめぐる謎かけは、ポスターがデザインにおけるひとつの武器としてその制作者たちに理解されてきたことも含意されているのだが、それに対し秋山は、出品した4枚のポスターのうち2枚を丸めて展示することで応えた。そしてさらに大胆にも《「9 Posters」のためのポスター Phase 2》(2020)の支持体として透明フィルムを使用することでグラフィックとしての抵抗感をなくし、「細く長い筒」でしかないものとしてポスターを再定義するのである。ここで秋山はスペキュラティブなデザインを施すことによって、ポスターに遊具としての属性を内包させるのだ。今回の展示で作品を購入した場合、山本とちゃんばらを行う権利がオプションとして追加されている。ゆえにこうした秋山の提案は、展覧会のコンセプトを直裁に具現化したものだといえるだろう。掲示され、丸められ、そしていずれは捨てられてしまうポスターの資本主義経済における儚さを、本展は遊びの精神を介在させることによって日常へと接続する。

展示風景より、左から石塚俊《ネバー・ロンリー》(2020)、荻野僚介《無題》(2020)、ケロクンプ&ルーマニャック with 谷沢直《Astrotrilogy》(2020)、秋山伸 上《「9 Posters」のためのポスター Phase 1》、下《「9 Posters」のためのポスター Phase 2》(2020)、温田庭子《ゆうとぴあグラスPoster(千代子と首里)》(2020) 撮影=木奥惠三 Courtesy of TALION GALLERY
展示風景より、左から山本悠《私はスイカに桜を見せる》(2020)、秋山伸 上《「9 Posters」のためのポスター Phase 2》、下《「9 Posters」のためのポスター Phase 1》(2020)、新津保建秀《琵琶湖》(2017)、脇田あすか《BREAD and BUTTER》(2020) 撮影=木奥惠三 Courtesy of TALION GALLERY

 先に引用したステートメントの続きにおいて、丸めたポスターを「ライト・セーバーみたい」と描写することによって、山本は「ポスター」と「スター・ウォーズ」のカップリングをもうひとつの謎として投げかけている。たしかに考えてみると、この両者にはどこか似ているところがあるかもしれない。『スター・ウォーズ』シリーズは、新3部作としてリブートが開始された1999年以降、つねに賛否両論を巻き起こしつつもいまだに関連作品が控えている。

 ポスターの歴史もまた、こうした息の長さに関連付けることができるだろう。「大衆雑誌が驚異的に発行部数を伸ばした時も、TVがカラーになって受信機が一家に一台と、普及しだした時も、常にポスターの危機は叫び続けられてきた(*1)」ことでもあるし、近い将来には「街頭や駅構内の広告スペースが、すべて動画を映し出すスクリーンに変わる日(*2)」も来るのかもしれない。にもかかわらず、ポスターは身近なメディアとして存在し続けている。最近でも、東京メトロのオフピーク通勤をPRするキャンペーンのポスターに、芸人のダンディ坂野と小島よしおが「ピークを知る男」として起用され、話題になったことは記憶に新しい。

 ポスターは、まるでスター・ウォーズのように延命し続けながら語ることをやめず、何かを残していく。私たちにイメージとのプリミティブな関わりの場を提供するその複製物は、至るところに貼り出され、不要となったら捨てられてしまうけれど、記憶に残ったり、ほかなる用途へと開かれていく。ステートメントにおいて山本は「この世界にあり続けるポスターは、それとは別に存在する幸福に支えられている」と語る。ここでいわれている「幸福」とは、こうした多様かつ柔軟な受容のプロセスのことではないだろうか。

新津保建秀 サウンドスケーププロジェクト_葉山 2006 - 2016

*1ーー田中一光「ポスターの隆盛」、亀倉雄策・田中一光・佐藤晃一編『現代世界のグラフィック・デザイン 第1巻 ポスター』(講談社、1988)、10頁
*2ーー難波功士『広告のクロノロジー―マスメディアの世紀を超えて―』(世界思想社、2010)、39頁