小瀬村真美:「幻画〜像(イメージ)の表皮」展 メディウムの相互参照性が照らす美学 塚田優 評
アンドレイ・タルコフスキーが著書『映像のポエジア — 刻印された時間』(1988)で述べるところによると、映画における編集などのテンポは、「監督に内在する本質的な生活感覚に応じ、監督の〈時間の探求〉とのかかわりのなかで有機的に生まれてくるもの」とされている。
小瀬村真美にとってその〈時間との探求〉を可能にしているのは、アニメーションという制作手法にほかならない。「アニメーションの定義:ノーマン・マクラレンからの手紙(ジョルジュ・シフィアノスによるイントロダクションつき)」(『表象』第7号、月曜社、2013)において、カナダのアニメーション作家のノーマン・マクラレンは、その固有性を「フレーム間に横たわる見えない隙間を操作する芸術」として位置づけている。ここで、例として《薇》(2003)を取り上げてみよう。
小瀬村はまずデジタル一眼レフカメラを固定し、一定の時間をおきながら撮影を継続する。そこから数千枚にも及ぶ写真をつなぐことによって映像を完成させた。通常ではありえない速度で有機物が朽ちていくのは、フレームとフレーム、つまり撮影の間隔がコントロールされているからだ。そのため本作は、マクラレンによるアニメーションの定義に極めて忠実な作品だと言えるだろう。
しかし、こうしたカテゴライズを内破させる契機が《episode Ⅲ》(2002)には見出せる。本作も時間をおきながら別々に撮影された人物(小瀬村自身)と花を合成し、アニメーション化したものだ。ここで検討したいのは、その花が枯れ始めたり、眠る女性の服が汚れていく瞬間だ。映像の変化は観者に心理的な効果を及ぼし、当初の生命感を想起させる。そのとき、脳裏に浮かび上がる画像は「プンクトゥム」(*)として私たちを突き刺すだろう。記憶の中でも生じうるとされるそれは、「瞬間(モーメント)」であったはずの写真を「形見(メメント)」へと変容させる。これによりインデックス化された写真画像は、強固な時間的な隔たりのなかへと閉じ込められていくのだ。
そして映像から写真へと送り返されたメディウムは、さらに絵画へと遡行する。世界初のポートレートであるイポリット・バヤールの《溺死した男》(1840)は、「死んでいる」設定で撮られたものだった。《episode Ⅲ》は、ジャック=ルイ・ダヴィッド《マラーの死》(1793)との類似も指摘される《溺死した男》をオマージュすることによって、西洋絵画史における殉教の主題を包摂しつつも、イメージからは判別不可能な、生と死の境目を私たちに問いかけている。
このようにして小瀬村は、活動の初期から絵画、写真、そして映像におけるメディアの重層性を具現化してきた。そして近年の作品では美術史の剽窃ではなく、より直截にこうした構造的アプローチに挑戦していることがうかがえるだろう。
《Pendulum》(2016)はこれまで有機物と対比させることによって、逆説的にカメラという機械の暴力性を際立たせていた作家が、振り子の運動にカメラを見立てることによって、人間の視覚とは異なる自律的なシステムとして機械を作動させている。本作におけるフレーム間の操作は不規則な緩急を持たせると同時に、多彩な映像の移り変わりによって時制を混濁させる。鏡のような画面の透明性は超越性へと飛躍し、観者はあたかもアリスのように鏡面を彼岸への通路と錯覚し、するりと吸い込まれることを夢想するだろう。
そのような無時間的な宙吊りは、4秒間の動きを12分に引き延ばすことによってサスペンスフルな作品に仕上がった《Drop Off》(2015)でも同様である。
引用を排することによって歴史を抹消し、媒体同士の相互参照をうながす小瀬村の作品は、イメージの本来的な虚構性を露にする。ドミニック・フェルナンデスは著書『天使の饗宴』(1988)の中で、バロック様式の代表的宮殿であるヴェルツブルクのレジデンツにあるヴェールに覆われた女性の彫刻に対して、次のように語っている。
バロックの芸術家たちは、ぼくたちの内的統一性を否認する。多様で変わりやすく、たえず移ろい変質する存在── ぼくたちをそう判断する。だから彼らは、ヴェールや仮面のかげにかくれたぼくたちこそが、もっともぼくたち自身なのだと考える。
本展には、その名もまさしく《Veil》(2011)と名付けられた写真シリーズが出展されている。それに付された自身の手による解説は、フェルナンデスの洞察とも呼応するだろう。小瀬村はヴェールのかかった光景に「事の終わりから事の始まりの間の何もない時間の空白」を感じるという。何かが被せられることによって、その「表皮」には多義性が凝縮される。キャリア初期の《薇》において、バロック期における代表的な静物画家・スルバランのアプロプリエーションに取り組んだ小瀬村は、絵画、写真、映像というメディウムの探求の果てに、その美学の根源をついに探り当てたのだ。
脚注
*— ロラン・バルトが著書『明るい部屋』(みすず書房、1985)の中で写真をめぐる経験として提唱した概念。一般的な概念の体系を揺さぶり、それを破壊するもの。コード化不可能な細部を発見してしまうような経験。