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REVIEW - 2019.11.30

「彼方の男」とは「誰」か? 中尾拓哉評 奥村雄樹「彼方の男、儚い資料体」

ブリュッセルとマーストリヒトを拠点に活動する奥村雄樹の個展「彼方の男、儚い資料体」が慶應義塾大学アート・センターにて開催された。「私」という主体やアイデンティティ、作者性といった概念を問い、他者との協同や重なり合いを通して、新たな「自画像」のあり方を探ってきた奥村。本展では、映像作品《彼方の男》の上映とあわせて、関連する3点の物品で構成された資料体が同センターのアーカイヴに追加され、アーカイヴと資料についての問いかけも行われた。美術評論家の中尾拓哉が、本展における試みを分析する。

文=中尾拓哉

慶應義塾大学アート・スペースでの「彼方の男、儚い資料体」展示風景 撮影=カロワークス 写真提供=慶應義塾大学アート・センター

記録と記憶がほどかれる彼方

 AとB、2つのユニットがある。それぞれは別々の測定法にもとづく異なる構成単位であり、重なることはない。ただし1ミリメートルと1秒が同じ世界を計測するための単位であるように、それらの「異なりは同じ」であり、ゆえに1つのユニットを形成しうる。

慶應義塾大学アート・スペースでの展示風景
撮影=カロワークス 写真提供=慶應義塾大学アート・センター

 慶應義塾大学アート・センターの入り口を通ると、異なるテクストが透明フィルムの上で重なっている。このユニットの重なりが、「彼」の手がかりとなる。

 2人の人物の後ろ姿の写真が別々に、2枚の薄いクラフトペーパー製のリーフレットに印刷されており、それらが透けるように重なり、1セットとなっている。重ね合わせの表面にどちらの人物がくるかによって2種類のセットとなる。それらのセットは「彼方の男、儚い資料体/The Man Who, An Ephemeral Archive」という2ヶ国語用に2枚に分かれているかのようであり、しかしそれぞれに、南雄介「旅と時間について」(『河原温:全体と部分 1964-1995』所収、1998)/渡部葉子「思考の場としてのカード・コンテナ──スタンリー・ブラウンのインデックス・カード作品について」(『慶應義塾大学アートセンター年報』所収、2013)という2つの日本語文献の一部が複写されてもいる。

慶應義塾大学アート・スペースでの展示風景
撮影=カロワークス 写真提供=慶應義塾大学アート・センター

 「彼方の男」とは「誰」か。映像作品《彼方の男》では、9人の語り手たちの記憶をたどる。「彼」に出会ったのはいつだったろうか。そう、それは──と語りはじめられる。それぞれのシークエンスにおいて語り手たちの記憶のスクリーンには「彼」が映し出されているのだろう。そこで「彼」は時刻/歩幅、あるいは年数/歩数の記録をとりながら、日付の絵画を描く/人に道を尋ねる姿で生きている。いっぽう「彼」に出会ったことのない鑑賞者であれば、果てしなく喋り/寡黙で、本屋に行っては本を買わなかった/買いあさった、という「彼」の部分を全体化しなければならない。2枚のリーフレットに印刷された日本語文献で論じられている作品は、作者が可視化されなくとも、日々の記録として作品自体を雄弁に語る。だとしても、ここでは記録のなかに生きている「彼」を、記憶のなかに生きている「彼」へと移していかなければならないのである。

彼方の男 2019 スチル

 「彼と彼がそこで会ったとき」と、「彼」が2人いることは、2人の「彼」が偶然出会ったエピソードとして、それを撮影した人物の記憶のなかでよみがえる。2枚のリーフレットに印刷された2枚の写真は、もともと1枚の写真であったのだ。

慶應義塾大学アート・センター アーカイヴでの閲覧風景
撮影=カロワークス 写真提供=慶應義塾大学アート・センター

 会期中に限り、会場となっているアートセンターのアーカイヴでは2枚に切り分けられる前の2人の写真を、資料体の一部として閲覧することができる。縁がわずかに変色し、ピントがわずかにずれた写真に写る、写ることを拒否する2人の後ろ姿は、フランスのオワロンで1993年6月2日に撮影されたと記録されている。2枚のリーフレットにおいて、左側の「彼」が反転され、右側の「彼」と重なっていたことを知る。

 けれども、記録と記憶のなかで異なる2人を、なぜ同じ「彼」にする必要があるのだろうか。こうして、「彼」という三人称が「誰」なのか、ではなく、2人の「彼」の重なりに現れてくるのは「誰/Who」なのか、という問いへと移ることになる。

 「彼」について話す、9人の語り手たちがみな後ろ姿で、あるいは顔を隠して映されていることは、後ろ姿になり顔を隠して写されていた2人の「彼」の写真と無関係ではない。そして、誰に向けられているのか不明なその語りが、記憶の束のなかからほどかれ、ばらばらに紡がれながら、互いに重なっていくのである。

慶應義塾大学アート・スペースでの《彼方の男》(2019)上映風景
撮影=カロワークス 写真提供=慶應義塾大学アート・センター

 「彼はどんな男だったかって?/The Man Who?」「それはつまりどっちの男について言ってるんだ?」「彼です/Him」と言葉が交わされる、暗転した画面のなかで「彼方の男/The Man Who」という字幕を読む/音声を聞くとき、鑑賞者は「彼」の「行方」、すなわち2つの「死」という結末を想像するだろう。アーカイヴには、語り手として出演する予定であったが、果たせずに他界したイシ・フィズマンの葬儀で配られたメモリアルカードが含まれている。「彼」はもういない。そして、「彼はどんな男だったかって?」という問いに対し、「答えが浮かんだら絵ハガキを送るから」と約束されたハガキもまた届き、資料体の一部となっている──「Sorry no answer yet in regard to him」。

 本展の目論見は、本来ばらばらに分解できないはずであるモノグラフのパラグラフをつなぎ合わせるように、記録されずに消えていく記憶のなかにいる不在の「彼」を、一見モノローグのダイアローグにおいてつなぎ止めるものではないだろう。むしろ、それはAからBへの移行や、AからBへの移動のような、ある時点やある地点を通過しながら、日付と距離、そして記録と記憶からほどかれていく「彼方/He」を切り開く試みなのだ。

 ある時点、ある地点における日付と新聞、歩行と地図のような時間と空間にもとづき、残された記録でもなく、そこから失われていく記憶でもなく、「彼方の男/The Man Who」が、いわば虚像の重なりである空虚のなかから「新しい何か」として生まれてこようとする。2人の「彼」の作品の重なりは、フィジカルな時間と空間による記録の重なりでありながら、「彼」について紡がれた別々の記憶と重なり、異なる/同じ次元へと移され、あるユニットを形成する。そのユニットは、入り口の作品、2枚のリーフレット、映像作品、資料体(写真/カード/ハガキ)の重なりであり、それらと別のユニットとしての作品と作家、あるいは作品と作品以外のものとの関係にまでおよび、「彼方/Who」への問いに重ねられる。私、あなた、彼と人称を行き来する奥村雄樹は、そのあまりに広大で深淵な記録と記憶がほどかれるニルヴァーナを、「彼」の身体を介さないままに表すのだ。


作品リスト
6 – 3(ニルヴァーナ,1970) 2019 アーカイヴァル顔料プリントが施された透明フィルムをプレキシグラスにマウント(展覧会図録の特定ページのスキャン画像の全面的な重ね合わせ) 36.4✕26.3cm 協力=一般財団法人 松澤宥プサイの部屋、独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所 Courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN, Tokyo

29771日 – 2094960歩 2019 クラフトペーパーにインク(切り貼りされた引用文の和訳) サイズ可変 配置=久保仁志 Courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN, Tokyo

彼方の男 2019 HDヴィデオ(マリア・ブルームとミシェル・クラウラとヘルマン・ダレッドとミシェル・ディディエールとルディ・フックスとイヴ・ヘヴァルトとカスパー・ケーニッヒとジャン=ユベール・マルタンとフィリップ・ファン・デン・ボッシュのインタビューを記録した映像の断片によるシークエンス) 116分15秒 追悼=イシ・フィズマン Courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN, Tokyo

彼方の男の資料をアート・センターで一時的にアーカイヴしてもらう 2019 作者による映像作品《彼方の男》(2019)に関連する3点のマテリアルが慶應義塾大学アート・センターのアーカイヴに一時的に保管されている状況(本展が終わる11月22日までに電話あるいはメールで予約した希望者は同センター2階の閲覧室において特定の日時にそれを調査できる) サイズ可変 深謝=ジャン=ユベール・マルタン、カスパー・ケーニッヒ、マリー・ローレンス・タカ Courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN, Tokyo