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2019.10.4

「教育」に反映される未来像とは? gnck 評「山本高之とアーツ前橋のビヨンド20XX展」

群馬県のアーツ前橋にて、小学校教員の経験をもつアーティスト・山本高之と、同館の学芸員らが「〈美術〉を通じた学び」について議論しながら制作された「山本高之とアーツ前橋のビヨンド20XX展」が開催された。市民も巻き込み教育と未来について考えた同展の試みについて、評論家のgnckがレビューする。

文=gnck

《ベルトコンベアー》の展示風景 撮影=木暮伸也
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パターナリスティック・プレッシャー

 美術館における「アウトリーチ活動」が「教育普及活動」と翻訳されるように、博物館法において美術館を含む博物館は「教育のための施設」という側面を強く持つ。そして根拠法であるがゆえに「教育」というタームは、ともすれば美術の社会的価値のエクスキューズとして持ち出される傾向にあると言える(*1)。そんななか、地域のボランティアとの関わりだけでなく、近隣小学校との長期にわたる連携などを見れば、アーツ前橋の教育普及の取り組みはかなり充実したものだろう。これは、一定のポリシーなくしては実現しえないものだ。そんなアーツ前橋と、「教育」を主題とする山本高之との関わりは、まったく予定調和とはいかない、緊張感のあるものに見える。

展示風景より 撮影=木暮伸也

 山本がまず要求するのは、普段は「教育──被教育」ポジションの前者にいると考えられる、学芸員への「ワークショップ」だ。美術館が制度である以上必然的な宿命である、硬直化した状態を一度突き崩すためにも、山本は(言葉遊びのように)「波に揉まれてこい」と学芸員たちを海に連れ出す(*2)。「学芸員=大人たち」のはじめのなんとも居心地が良いとは言えない上滑りした感じは、山本が言うような「括弧つき」でないワークショップに巻き込まれた大人の姿だろう。

《この絵はなんでここにある?》(2019)の展示風景 撮影=木暮伸也

 展示中には、子供という存在が「前提を共有していない=原理的に忖度できない」ことが、大人たちの常識的な判断を動揺させる様子もある。「前橋の最初の収蔵作品」の来歴を想像して、演劇形式で発表する《この絵はなんでここにある?》では、「最初の寄贈作品は盗品である」と子供たちが想像する。その筋立ては、図らずもはじめに簒奪があったというミュージアムの歴史の原罪をなぞり返すようだ。あるいはワークショップ映像『美術館って何?』(*3)のなかで、「対話によっていちばんの作品を決めよう」としても、退屈で飽きてしまう子供が出始めてしまう。それにも関わらず、ワークショップを推進する「大人」は、形式的であろうとも、なだめすかそうとも、「みんなで話し合おう」という「理念=お題目」を捨て去ることはできない。ファシリテーションのなかで無理やり採用したのは「このなかでいちばん嫌いな絵を選ぶ」というものだったが、(無邪気に)選び出されたのは、足尾銅山を画題に取った近藤嘉男《足尾風景》(1950)。「大人」は、作品の背後にある公害の歴史を隠すわけではないのだが、子供が「無邪気」に「嫌い」と言えてしまうことに、鑑賞者たる「大人」は、返す言葉が問われるだろう(そしてその言葉を探すためにも、絵画をより深く鑑賞し始めるだろう)。

 《サイレントコメディ》は、「人生でいちばん面白かったエピソード」を、言葉を発さずに表現してみるものだ。映像のなかで、ワークショップの参加者である聴衆は、事前にそのエピソードを聞くことになっており、「言葉を使わない」というレギュレーションのなかで、発表者がいかに創意工夫しているのかを共感を持って眺めている。「言葉を介さずに(言語の壁を超えて)コミュニケーションをし合う」共同性(*4)がそこに立ち現れるいっぽうで、作品の鑑賞者にとっては、その共同性が「言語の壁の向こうの親密圏」として感じられるという二重の構造を持つ作品であり、現実に外国にルーツを持つ子供たちが「学校」という現場で味わっているであろう2つの側面を同時に感じさせる。

展示風景より 撮影=木暮伸也

 また《ベルトコンベアー》では、「造形あそび」(*5)のような、初等教育現場で強く信仰されている児童中心主義的な活動からすれば真逆の方法論で、児童画を「大量生産」してみせもする。モダンタイムス的な「工場労働者=機械の正確なリズムにチューニングする身体」こそが近代化教育の生み出した巨大な身体への規制であり、学校の本質的な出自である(がゆえに、アクティブ・ラーニングはそこに対抗的に称揚される)が、出力された作品からは、じつは児童が内発性によって作品を生み出しているのか、量産の手つきによって生み出しているのか、簡単には判断がつかない──翻ってみれば、各学校や美術館、公民館で開催される学校美術展で展示される「優秀作品」が生み出される背景にどれほど「児童生徒の自発性」が宿っているのかは、じつはそのプロセスを実際に知っている者にしかわからないのだ(*6)。

 山本の試みは一見してだいぶ地味だ。例えば「知的な操作の結果、二律背反を乗り越える」ような、鮮やかな結論を導き出してくれるものでもない。しかしながら山本が据わった目でかける「圧」は、かけられた側としては「うっ」と思ってしまうような、面倒くさかったり、あるいは「良きこと」だからやらざるをえないような、抑圧的な作用だ。しかし逆説的なのであるが、その「圧」によって現場はルーティンを一度ほぐしてみることができる。時には言いづらかったことや、面倒だからあまり注目しておかなかったところにも注目し始める。あるいは、その「圧」によって子供たちに自立=何かに抵抗する契機を埋め込もうとしているようにも見える。今日ますますソフィスティケート(自発性を評価する=強制/矯正ではないのだと強弁する)しようとする教育権力に対して、山本は敢えてパターナリスティックな権力(らしきポーズ)を引き受けてみせる。そのことによって自立/思考の契機を内包させようという姿勢には、山本の「教育」への矜持が垣間見える。

《ヘッドギアー》(2019)の展示風景 撮影=木暮伸也

*1──いっぽうで、教育行政の側からも、美術館を美術教育へと接続しようとする動きは存在しており、文部科学省が定める学習指導要領では、地域の美術館施設の「活用」が推進されている。実際の「活用」の方法論としては、たんなる作品解説=「知識の伝達」ではなく、アメリア・アレナス式の「対話型鑑賞」=「感性を働かせて(学習指導要領用語である)」作品を鑑賞する方法が採用される。現在の教育行政の目指す「アクティブ・ラーニング」の重視という方向性は、「対話型」や「ワークショップ」という、美術のアウトリーチの先進的な取り組みと方向性を一にしている。これは一見すれば「良きこと」に見えるが、教育という「権力的な作用」の根拠を、「被教育者の自発性」へとソフィスティケートさせるものでもある。
*2──展示会場でも流れていた山本のインタビュー映像が公開されているが、このマジなのかネタなのかわからない目が据わっている感じが山本の何よりの資質だろう。 https://www.youtube.com/watch?v=u5DspVyU-WU
*3──本作は山本による監修ではなく、同館学芸員の今井朋がアーティストの中島佑太とともに続けてきたワークショップの延長線上に位置づくプロジェクトである。
*4──それは、固有の言語を超えるユニバーサルな言語を夢見た「絵画言語のコスモポリタニズム的側面」の理念ともシンクロするだろう。
*5──初等教育において、作品の完成度を要求するのではなく、素材や色の操作などの体験を通じた学びを重視する活動。
*6──しかしながら、そのプロセスをともにしたものにはそれはありありとわかるし、作品からある程度推測することもできる。それが教育者のプロフェッショナリズムでもある。しかし、さらに引いてみればそのプロフェッショナリズムには独善性が内包されているかもしれない。