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「作家ではない人物」の個展は可能か? 松岡剛評「木下直之全集─近くても遠い場所へ─」展

美術史家・文化資源学研究者の木下直之の「個展」が、東京・東陽町のギャラリーエークワッドで開催されている。美術館学芸員を経て、祭礼や記念碑など社会のあり方と結びつく対象を研究してきた木下。その活動を著書をもとに振り返るユニークな企画を、広島市現代美術館学芸員の松岡剛がレビューする。

文=松岡剛

会場風景より 撮影=光齋昇馬

「木下直之の」の「の」の展覧会

 昨年のNHK大河ドラマ『西郷どん』は、未亡人となった西郷隆盛の妻・糸が、上野公園の西郷隆盛像の姿に違和感を抱くという一幕から始まる。そこでは、それが如何なる違和感で、銅像の姿が何に起因するのかは明らかにされなかった。きっと多くの視聴者がこのエピソードのオチを期待していたにちがいない。ところが、最終回のいよいよ最後に至っても、銅像のくだりが回収されることはなく、「もうここらでよか」と鈴木亮平演じる隆盛は満足げに言い残し、話は終わってしまう。この終幕に戸惑った人もまた、相当数いるにちがいない(と、私は思っている)。

会場風景より 撮影=光齋昇馬

 いっぽうで、「木下直之全集」と題された本展は、木下自身による次のような出だしの文章から始まる。

「わたしも美術館人、博物館人の端くれですから、この展覧会がいかに常軌を逸しているかということはよくわかります。普通はありえない。起こりえない[…]」。

 とは言うものの、評論家やパトロン、コレクターといった、「作家ではない人物」を主軸とした展覧会は想定されうるし、「木下直之の展覧会」が開催されるとしても不思議はない。ただし、作家ではないということは、例えば「岡本太郎の展覧会」や、「フェルメールの展覧会」とは当然異なる枠組みが設定される(という認識は後に、部分的に覆されるのだが)。

会場風景より 撮影=光齋昇馬

 近い例として「石子順造的世界」展(府中市美術館、2011〜12)や「種村季弘の眼 迷宮の美術家たち」展(板橋区立美術館、2014)が思い浮かぶが、「木下直之全集」は主題となる中心人物がキュレーションにも関わった点で異なっている。こうした場合、その展覧会とは、研究活動の軌跡を回顧するいっぽうで、展覧会そのものが新たな実践としての性格も帯びることになる。とりわけ、その人が美術館人、研究者、教育者、コレクター、文化資源活用プロジェクトの実践者といった様々な顔(アウトプットの形式)を持つ人物となれば、いっそう多層的な展覧会となりうるだろう。

 つまり、先に引いた冒頭の言葉からは、展覧会のありえなさよりも、普通でなさをこそ読み取りたいところであり、当初の違和感が展開の最終局面で回収される/されない、どころかその全編を通じて、展覧会の在り様として示し続けられる、そのような期待が膨らむのだった。

2017年、富山県高岡市にて「福岡町つくりもんまつり」の立て看板と木下直之。
「『つくりもん』なのか『作品』なのか、どっちなんだ」とツッコミを入れている様子

 会場に並んでいるのは、じつに多様な物や情報である。「つくりものの世界」「作品の登場」「都市とモニュメント」「ヌードとはだか」「戦争の記憶」といった章立てを目にしただけで、これまでの著作で取り上げられてきた、様々な創作物や活動、風習が一堂に会していることがわかるのだが、それらが一次史料、複製、再現(つくりものの再構成)、記録、解説といった、多様なレベルの情報を介して紹介されている。さらには、『ハリボテの町』(朝日新聞社、1995)の表紙でお馴染みの、「この先つくりもん作品があります。」と記された立て看板の実物(!)。これは、福岡町つくりもんまつり(富山県・高岡市)で、なんと現在も用いられているものであるという。

 実物に接することのこうした驚きと喜びを含め提示される情報の多様性やその効果は、例えば書籍などに比した際に浮かび上がる、展覧会というメディアの特性を活かしたものと言える。加えて、上に列挙したテーマは言うまでもなく、「美術館」「博物館」「展示」といった事柄と結びつき、私たちが会場でまさに目のあたりにしている営為としての「展覧会」へも差し向けられるだろう。鑑賞と同時にその構造上の意味がつねに問い返される様はまさに、上野動物園で「オオアリクイの見事な舌の動きとそれを見せる装置の双方に釘付けになっていた」木下らが「動物と動物園の双方を経験」したことに似ている(*)。

 

会場で加筆パフォーマンスを行う木下直之 撮影=光齋昇馬

 また、もういっぽうで重要なモチーフとなっているのが、各所に示される「木下直之」当人の存在である。仮装行列に加わる楽しげな様子は参考写真に用いられ、展示物に対して手書きでコメントが書き込まれる。また、高校生時代に制作したという絵画作品《少年》にも驚かされた。そして、筆者は残念ながら実際に目にすることができていないが、「紙芝居式ギャラリートーク」や「本人による加筆パフォーマンス」といったイベントが会期中に行われているという。そして、最後のコーナー「木下直之全集」では、彼がこれまで綴ってきたノートやファイルをはじめ、アウトプットの背景を垣間見ることができる。こうして、当人の生身の姿を想起させる要素が、本展覧会の核を構成している。

 これらのすべて、つまり、展覧会に並ぶ物や情報の多様性と、それらが展示物として果たす役割の多様性が、「木下直之の展覧会」における「の」の正体と言えるだろう。それは、展示物と展覧会の多様な組み合わせと、その変奏で綴られた展覧会論として見ることができる。

会場風景より 撮影=光齋昇馬

 さて、『西郷どん』がしくじったこととは、西郷隆盛像の顛末にふれ、人物イメージの操作・創出という関連性を通してテレビドラマ自体の業をもとらえ返す視点を内包することではなかったか。他方、「木下直之全集」では、展覧会を通して展示そのものを問うという、本質的かつ切実な探求が、内容と実践の楽しさを伴って提示されていたのだった。

*──木下直之『動物園巡礼』東京大学出版会、2018、p5

編集部

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