街から自然へ、そして日常へ
2017年に美術館と図書館の複合施設として開館した群馬県の太田市美術館・図書館で、「ことばをながめる、ことばとあるく―詩と歌のある風景」と題された展覧会が開催された。美術と言葉の関係性を検証することが、施設の存在意義を示すことと同義になりうる同館は、開館初年から「本と美術の展覧会」シリーズを企画しており、本展はその第2弾にあたる。
3部構成をとる展覧会の最初の部屋では、デザイナーの佐々木俊、祖父江慎、服部一成が、現代詩の前線をいく最果タヒの詩をグラフィックで表現した。様相の異なる言葉が次々と姿を現す空間は、人間にかわって言葉が生命体となったひとつの街のようだ。一つひとつの詩に様々な視覚的個性を付与し、それによって詩の安定した可読性をユーモラスに阻む祖父江の試みと、丸みを帯びた有機的形態の輪郭線を外枠として、内側に文字を流し込んだ服部の手法は、言葉が自我を持ち、自動生成したかのような錯覚を引き起こす。
いっぽう、佐々木はバス停の標識と立て看板という情報伝達のためのフォーマットへ、詩という情報の対極に位置する言葉を組み込んだ。立て看板は思想の表明や運動の手段としても用いられる形式だが、鮮やかな色彩と端正な活字に彩られた表面は、あくまでもポップで「かわいい」。それは、生や死、恋や女子高生など、言葉に付随する価値観を既存のしがらみから解放し、現代社会への痛烈な批評を内在させる最果の詩の特徴と、巧みに対応している。
続く展覧会の第2部では、詩人の管啓次郎と美術家の佐々木愛が、訪れた土地を歩き、それぞれ詩と絵で描き出す「Walking」の太田バージョンを展示。管と佐々木の「Walking」は、2009年から都度場所を変えて継続的に取り組まれているもので、2人がある場所へ赴き、歩くことで感じた土地の記憶や呼吸から着想を得て制作される。紡ぎ出された詩と絵は、着想源を特定の場所に拠っているものの、場所の個的な特徴をなぞっているわけではない。むしろ大地や自然、人間の営みといった普遍的な生命の軌跡を、古くから語り継がれてきた物語のように抽象化して描き出しており、いままさに作品を見ている場所と、悠久の時を経てきた世界が地続きのものとしてつながる、ダイナミックな鑑賞体験を得ることができる。
そして第3部となる最後の展示室では、明治時代の太田に生まれた歌人、大槻三好と大槻松枝の短歌が、太田に隣接する栃木県足利市出身のイラストレーター・惣田紗希の壁画にのせて紹介された。大槻三好と松枝はともに小学校の教師をしながら短歌をつくっていた。夫婦となり、松枝は退職して子を産むも、25歳で逝去。その後、三好が編者となり松枝の歌集『紅椿』を刊行し、前後に三好自身も『白墨の粉』『花と木馬』という歌集を出しているが、現在では地元の太田でもほとんど忘れられた存在となっているようである。本展では、前述の歌集3冊から惣田がいくつかの歌を選び、自身の壁画の上に再構成してみせた。1929年から34年に刊行された歌集の歌ではあるものの、口語で日々のつつましい感情が表現されており、現在の私たちが読んでもなんら違和感がない。惣田の描くシンプルな線のイラストも、すんなりと心を歌へ引きつける手助けとなっている。
本展の3部構成のテーマを少し乱暴に括れば、順に「社会・街」「生命(いのち)・自然」「生活・日常」ということになるのではないだろうか。まず現代社会とそのなかで生まれる感情を鋭く突き刺す最果の詩を導入とすることで、街からきた来場者と詩の距離を近づけ、次に市街から太田のシンボルである金山へ歩いた管と佐々木の道筋を辿るように、自然のなかの生命へと意識を向かわせる。そして三好・松枝の日常に根付いた短歌で、生活の美しさを再認識させる。展覧会場の中に街から自然へ、そして日常へという流れが形成されており、最後の展示室から外を見た建物の壁に、
淋しい時はぶらり山へ行つて見ろ
草木はなぐさめの言葉をもつてる
という三好の言葉を添えることにより、施設の外へも来場者を誘う。土地柄や場所性を強調することで、外部からの来場者やその土地に馴染みのある者にさえ疎外感を与えるような展示を見ることもあるが、本展は土地と無関係なところからはじまり、続いて外の者が見た土地の姿、最後に土地の者が語る日常を示した。ひらかれた状態から特定の場へと順に目を向けさせる構成に、地方の公立美術館としての誠実な姿勢を読みとることができ、好感を覚えた。
今回の出品作は、いずれも言葉が先行し、絵やグラフィックがそれに応えるというものであったが、美術館と図書館の複合施設として、美術の側から言語表現を振り返ったり、美術史における言語表現について考察したりする内容も考えられるだろう。言葉と美術の豊かな関係に迫る企画に、今後も期待したい。