文体の過剰、展覧会の過剰、その練習
鞆の津ミュージアムは、障害者支援施設を運営する社会福祉法人を母体とすることもあって、関係施設の利用者や障害を持つ人々の作品、いわゆる福祉版の「アール・ブリュット」が期待されているであろうアートセンターである。しかしながら実際には、そうした枠組みにとらわれることなく、特に「自主企画展」と銘打たれた一連の企画を通して幅広いつくり手による表現を紹介してきた。今回のラインナップも多彩で、第一線で活躍するプロのグラフィック・デザイナー、ユニークな創作活動を繰り広げる警備員、毛糸店や青果店の店主といった市井のつくり手、あるいは、特定ジャンルの土産物コレクター/研究者といった面々も出品者として名を連ねていた。
3つの空間(部屋)とそれらをつなぐ通路からなる展示室はおよそ100㎡と決して広くはないが、大小の連なりがリズミカルな流れを形成し、テーマを筋道立てて展開していく展示で効果を発揮する。本展では、特に展示半ばと後半の中心的なエリアにおいて、印象的な対比がつくり出され、展覧会のコンセプトを明瞭に伝えていた。
藤井恵子の作品は紙片いっぱいに文字が並び、それらが韻を踏む詩のようなものとして目に飛び込んでくる。ところが、一つひとつの文字を追っていくと、決して意味を持つことのない、快い音の連なりであることがわかる。こうした表現に向かい合うようにして、西山友浩の作品が展示されている。こちらは一見、複雑に交差する線の集まりのようだが、より子細に見ていくと、重なり合う文字が姿を現す。この文字列は、日々行った事柄を書き綴ったものである。それが一般的な日記と異なるのは、定型的な文言ばかりで構成されている点で、活動内容が同じ場合、まるで日報の決まり文句のように、同じ文言が反復される。そのため、字そのものは慣れないと非常に読みづらいが、一度解読したことのある文言は形態から容易に理解できるようになる。このように、藤井と西山の文体における過剰さは対照的な部分に備わっており、展示におけるこれらの対比がその特質を浮き彫りにしている。
また、展示終盤、もっとも大きな空間に足を踏み入れると、奥の壁面に「ひばり毛糸店」なる看板が据えられている。これは鞆の津ミュージアムからもほど近い、尾道の駅前商店街に掲げられていたもので、元店主・美馬あけみが先代のアイデアを発展的に引き継ぎ、新たな要素を付け加えて制作したのだという。その向かいには、青果店店主・加藤守久が独自のフォントで書き綴り、店舗に掲出してきた、様々なランキングの一覧がところ狭しと貼り出されている。毛糸を商うことを実物の毛糸で示すという、確かに理には適っている看板と、我が道を行く店主による、いかにも破天荒な字体と内容の貼り紙群。いずれもが、本来は展示室ではない、外部の都市空間で成立する表現として導入されている。
そこにはさらに、両者の間に割って入るようにして、橋本淳司によるドローイングが展示されている。それは橋本が自身の限られた生活圏(自身の部屋、自宅近辺の決まった場所)で目にする図像を記憶に従って繰り返し描き、その反復のなかでアレンジが加えられていったという、どこまでも内向的な世界を示す創作物である。図像同士の奇妙な組み合わせや、一部の変換など、アレンジの妙はその反復のなかのリズムや変調によって生み出される。
このように、作品間のシンプルな対比がコーナーとして完結するのではなく、別の作者の展示物や、ほかの作品同士の対比が横断するように関連し合う。展示室という密室内での高密度の対比群が幾重にも織り込まれ、その並びの意図を読み解こうとすることが、作品のさらなる側面をあぶり出すような展示となっている。
いっぽうで冒頭の一室に展開される、山下メロによる「ファンシー絵みやげコレクション」は「文体」というテーマに収まりきらない要素を多く含んでいる。それらは確かに、その時代と媒体に特有の字体や言い回しを備え、文字にまつわるユニークな表現としての見応えがある。しかしながら、そこにはキャラクターやイラストといったほかの造型要素、あるいは観光地の名所や歴史といったコンテンツとの関係、さらには土産物というメディアそのもののあり方といった、様々な視点から検討することを欲してしまうような、拡散的な魅力に満ちている。つまり、展覧会がテーマとして設定する事柄を離れ、枠組みを脅かしてしまうほどの広がりを持っている。
本展でいくつか見られる、こうしたテーマに対する過剰さをキュレーションの破綻と断じるのは早計である。近年の鞆の津ミュージアムは、多様な表現の成立や造型の原理に迫ろうとする、明確なコンセプトに基づいたテーマ展を開催してきた。その多くが、テーマにきれいに収まるのではなく、枠組みを際どく押し広げていくようなラインナップを伴っている。リサーチを通して様々な表現が発見されていき、それらが新たな認識の地平を切り開いていくときの興奮にも似た、臨場感が漂っている。
改めて展覧会名を見直すと「文体の練習」とは、複合的な要素の連関から浮かび上がる個々の「文体」に、特定の型を会得するための「練習」を組み合わせた、ひねりの効いたタイトルである。そして、ここに集まる独自性の突出した「文体」は、「練習」という反復的行為を通して、外側から付与されたものには見えにくい。そうではなく、本展における「練習」とは、世の中で綴られたものが宿す過剰を、文体という相から眺め直すことへと向けられた、見る側に課せられたレッスンであり、この展覧会の鑑賞体験を意味していたのであった。