2017.9.17

副田一穂が見た、「やわらかな脊椎」展

大寺俊紀の展示風景 撮影=守屋友樹
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副田一穂 年間月評第3回 大寺俊紀+乙うたろう「やわらかな脊椎」展 ないものをみる目

 1964年、ニューヨークの画廊で開催されたジュリアン・スタンザックの個展「Optical Paintings」の展評を書きながら、ドナルド・ジャッドは「Pop Art」という語に引っ掛けたある駄洒落を思いついた。画廊が批評家受けを狙って勝手に付けた個展名(その思惑は見事に成功したわけだ)に対する、およそ 視覚的オプティカル でない絵画など存在しないのだから同語反復だというスタンザックの正論は措くとして、ともかくこの駄洒落は同年の『TIME』誌の記事で人口に膾炙し、さらに翌年米国各地を巡回した「応答する目」展を通じ、ひとつの美術動向として耳目を集めることとなった。

 ジャッドの冗談と同じ年に日本で発足したニュージオメトリック・アートグループもまた、自らを「応答する目」展に先行する汎世界的傾向と定位しつつ、非個性的表現の徹底を志向した。このグループにやや遅れて合流した大寺俊紀は、以後約20年にわたり単純な図形を規則的に変形・反復するモジュール的な絵画の制作に取り組んでいる。しかし、85年の突如の召命でプロテスタントの教養と自らの絵画実践とに齟齬をきたしたため、大寺は従前の幾何学抽象の中にペインタリーな筆致を差し挟むことでそれを克服しようとした。他方、乙うたろうはアニメの美少女キャラクターの頭部を壺の表面に歪めて描くことで、それ自体平面に過ぎないイメージに身体を与えようと試みる。「つぼ美」という身も蓋もない名のもとに描かれたキャラクターのイメージは、彼女が内面をつなぎ止めるために必要な固有名と背景美術という道具立てを失って、空洞を抱いて虚ろな視線を投げかけている。そもそも壺は構造上、頸、耳、肩、胴、腰、脚のいずれでもなく消化器の前端である口を特権化するいっぽうで、目を持っていないのだが。

乙うたろう つぼ美 2017 撮影=守屋友樹

 際限なく広がる幾何学の空間と、物語から切り離され内面を失ったキャラクター。背景もキャリアも異なるこの2人の作品は、奥行を欠いた(あるいは意味を欠いた)世界を、それぞれの必然性においてどう見通すことができるのかについての、2つの実践例だ。キュレーターの長谷川新は、そこにオプ・アートという補助線を引く。

乙うたろう つぼ美 2017 撮影=守屋友樹

 オプ・アートは、何よりも芸術作品の鑑賞における素朴な実在論への懐疑であった。なにしろ私たちの知覚経験としてまさに現れている明滅する色や動き続けるかたちは、物理的対象として目の前にある当の絵画には描かれていないのだ。知覚の錯誤そのものを拠り所とするこの現象主義は、物理的平面へ還元した絵画を無時間化・脱身体化した鑑賞者が知覚するというモダニズムの図式とは、明らかに折り合いが悪い。他方、画面にではなく鑑賞者の知覚経験のうちに一種の幻覚バンタシアー として生じるような、信仰や崇高といった表象不可能なものとは相性が良い。大寺が画面に物語を再導入するにあたり抽象的崇高を思わせるストロークを選択したのは、その点において道理である。壺の周囲を移動することで延々と変形し続ける乙うたろうの歪像が、唯一正しい視点を欠いているように、2人の実践は、見晴らしの良い超越論的な目を捨て、あえて錯覚や幻覚のうちに留まることで世界を見通そうという困難な試みでもあるのだ。