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REVIEW - 2018.4.20

「積層」する、絵画と現実。
菅原伸也が見た、
「絵と、  vol.1 五月女哲平」展

東京国立近代美術館企画課長の蔵屋美香が通年を通してキュレーターを務める、「絵と、」シリーズ。「絵と」現実を、絵画ならではの方法で切り結ぼうとしている作家を選出する本シリーズの初回となる「絵と、  vol.1 五月女哲平」が東京・東神田のgallery αMで開催中だ。この展覧会を、批評家の菅原伸也が論じる。

文=菅原伸也

展示風景

展示風景

「絵と、  vol.1 五月女哲平」展
絵、層なの?
菅原伸也 評

 例えば《2018.2.2 #3》と《2018.2.2 #4》という作品。両者とも平面上エッジに沿って四角の枠取りがあるため窓を思い起こさせる。だが、枠状の部分はある風景の写真であり、真ん中の部分はガラスにシルクスクリーンが黒く刷られたものなので窓ガラスと違って透明ではない。したがって、枠が風景に、枠の内側が黒く不透明になっている点で、通常の窓における枠と、風景が見えるガラス部分とが入れ替わったものだと言える。そして、実は黒いガラスは写真の上に置かれているだけなので、写真と黒ガラスは積層状態になっているのである。

 レオン・バッティスタ・アルベルティが絵画を「開かれた窓」に例えたように、窓は絵画の特権的なメタファーの一つだが、五月女哲平のこれらの作品は筆と絵具を用いていないという意味では通常の絵画ではなく、枠と真ん中部分が入れ替わっているという意味で通常の窓とも違う。五月女は「窓としての絵画」に言及しつつもそれを解体し、積層へと問題を移行させているのである。

 では、開かれていないこの「窓」は不透明な壁のようなものなのだろうか? 例えばデュシャンの「フレュシュ・ウィドウ」やフランク・ステラの「ブラック・ペインティング」があたかも黒い不透明な壁であるように。本展の出品作は筆や絵具を用いたものは皆無で、すべて写真やガラスなどから成り立っているが、それ以前の五月女の近作は様々な色面を塗り重ねた後にその上から黒や白などの無彩色で覆う絵画作品であった。色面の積層がその下に内在しているものの、結果的にそれは黒や白の壁に近いものになっていたのである。本展の作品も積層であることは変わらないが、無彩色の層が壁のように立ちはだかり、下にある層を完全に「犠牲」にしてしまうといったことはなく、平面上においてなんらかの形で諸層を可視化している。それはもはや一枚岩的な不透明な壁ではなく、層の重なり合いという側面を明示しているのである。

 加えて重要なのは、先述の二作品の真ん中部分、つまり黒いガラスは不透明な面であるだけではなく、鏡のように観客と手前側の空間を反射しているということである。アルベルティは絵画を「ナルキッソスの技芸」とも呼び、窓だけでなく水鏡にも絵画の根源を見出している。しかし、五月女作品において観客は黒いガラスに映った自らの像に恋してしまうナルキッソスではない。ここでは鏡面に反射した観客やギャラリー空間も作品における複数の層の一つでしかないのである。これらの作品は、我々の「現実」をも一つの層として組み込んでナルシシズムを破壊する恐ろしい装置なのであり、写真やガラスなどとそれを等価に扱うのである(他の出品作では、黒や白のガラスを通して下にある写真がかすかに透けて見えるものもあり、もう一つレイヤーがそこに加わっている)。

 本展の出品作すべてで写真が用いられているが、みな五月女の地元である渡良瀬遊水地で撮影されている。元々そこは足尾銅山の鉱毒を沈殿化させるための場所であり、以前は谷中村という集落が存在していた。そして震災後には放射性物質が蓄積し、撮影時には前日に降った雪が、倒れた葦に覆われた地面の上にまだらに積もっていた。このようにこの場には様々な歴史的層が積み重なっているため、たとえ物理的には一枚の印画紙であっても写真自体がすでに積層なのである。さらに注目すべきは、出品作すべてで、支持体を除けば写真が一番下の層にあり平面全てを覆っているということである。したがって、最下層がつねにすでに渡良瀬遊水地(の写真)という積層であるため、これらの作品には全てを支える究極の基底面は存在していない。基底面を生じさせないために、下が透けて見えるガラスやアクリル板ではなく渡良瀬遊水地の写真が、基底面と見られてしまいかねない支持体を最下層で覆い尽くしている必要があるのである。

 五月女の作品は恐ろしい装置であるだけでなく、写真と鏡面を通して「現実」に言及することによって、「現実」において我々が様々な所に積層を見出すよう誘う装置でもある。渡良瀬遊水地はたまたま五月女にとって馴染みがあっただけで特権的なものではない。一つのサンプルなのである。作品上の鏡面も時と場所によって異なる光景を映し出すことだろう。あらゆるものが積層として見出される可能性に開かれ、観客はギャラリーを離れても積層を探し求めるよう作品によって要請されるのだ。

 このように、本展の出品作は「窓」と「鏡」という絵画的メタファーに言及することによって、筆と絵具を使わずして絵画でありメタ絵画でもある。そして、それにとどまらず、さらに「現実」の出来事を直接的に描くといったやり方をも超えて、絵画と「現実」両方を積層として見出し、「現実」を作品内の一つの層として含み込むことによって、絵画的な問題と「現実」とが奇跡的に結びついているのである。