「現代美術」と現実の狭間で
クリスティアンは、王宮に併設された現代美術館、「X ロイヤル」のチーフ・キュレーター。順風に見えた彼のキャリアと平穏な日常は、あるトラブルに巻き込まれ、その対処法を間違ったことをきっかけに狂い始める。彼は、美術館の敷地内に、4メートル四方の空間を区切った作品「ザ・スクエア」を設置する。社会学者でもある作家のステイトメントによると、そこは「信頼と思いやりの領域」であり、誰もが平等の権利と義務を持つと言う。ニコラ・ブリオーの『関係性の美学』に影響されたというその作品の内部で、例えば弱者が助けを求めるなら、私たちはそれに従わなくてはならない。ところが、広告会社の仕掛けたこの作品のプロモーションが、私生活の混乱の只中にあるクリスティアンの目をすり抜けて大炎上してしまう。弱者に対する激しい冒涜の責任を取るのか、それとも表現の自由を取るのか。キュレーターは人々の声に追い詰められていく――。
この映画で主人公たちの行動を滑稽なまでに縛り付けている価値観――複数の生のありようを認めるリベラリズムは、現代美術が則る主要なテーマである。同時に現代美術とは、自己の足元を見つめるという知的行為――自己批評、自己言及の手段という側面を持つ。弱者の権利、自由や平等を主張しても、一枚剥がせば、エリートという自意識から逃れられない人たちによる非現実的なエクスキューズに過ぎないという、現代美術という分野に貼り付いてきた一面を、この映画は皮肉たっぷりに描きだしている。
一応は主人公と同じ職業に就いている一人として、私が興味深く見たのは、クリスティアンの人生の複雑な陰影の描き方だ。ブロンドだらけのチアガール・チームに娘を入れ応援する父親としての顔と、セクシズムやレイシズムに対抗する現代美術のキュレーターとしての顔が一人の人間の中に同居してしまう滑稽さを、私は笑うことはできない。一方で、クリスティアンに共感するのは、彼が自分の生の矛盾に気づきつつ、現実と理想の辻褄合わせをなんとか行おうとして足掻き続けている点だ。知的な傍観者ではなく、本能のままに現実に対峙する当事者にならなくては――。彼は、内心大いに怯えながらも不審者から逃げてきた女性を守り、気まずい結果になるとわかっていてもホームレスに施しをする。それは、彼が信じる「現代美術」が、決して机上の空論ではなく、現実世界に変化を与えられるのだという、プライドを賭けた戦いでもある。
クリスティアンが、作品のコンセプトについて話す場面の描写は秀逸だ。彼はまず、「関係性の美学」だの「拡張された場」だのといった、美術内の言説を口にしてしまうが、すぐにそれを捨てて、彼なりの本音で語ろうと言葉を選ぶ(しかし、いつもうまく伝わらない)。コンセプチュアル/知性/現代美術の世界と、本音/本能/現実世界との対比は、クライマックスとも言える、ガラパーティーで行われた獣になりきる人間のパフォーマンスの場面で、見事に描き出される。言うまでもなくこれは、たんなる現代美術の世界の内輪話を越えて、政治的正しさや多様性というイデオロギーに囚われつつも現実には何も行動を起こせない、現代の多くの人々への鋭い風刺となっている。
さて、この寓話的な物語は、日本の社会でも通用するだろうか。欧米より移入された概念、価値観の上に成り立つ日本美術/日本社会の演劇性は、この映画で描かれる世界よりももう一段階ねじれていると感じる。東日本大震災以降、現代美術が社会に対してなし得る力が強く問われたことも思い出される。それでも私たちは、諦めずに足掻き続けなくてはならない。外側から見れば十分に滑稽なその道程にこそ、現代美術の実践の本質があるのではないだろうか。キュレーターの端くれとしては、そのような自覚に立ち返らされる映画だった。クリスティアンが「現代美術」の世界を降り、一人の人間として歩むラストシーンを多少残念に思いつつ。