修復しなければならない所蔵作品は多々あるが、予算には限りがある。そんな課題を抱える美術館は少なくないだろう。こうした状況を少しでも変えたいと、2021年、NPO法人美術保存修復センター横浜(横浜市中区、代表=大西章夫)では、「画家の思い 継承を目指して―時を超えて伝える―絵画修復プロジェクト」を開始した。公共施設が持つ美術品の保存と継承を目的として、美術を愛好する人々からの寄付金をもとに修復を行うという活動である。
その初回に選ばれたのは、同じ神奈川県内で以前からつながりのある真鶴町立中川一政美術館の所蔵作品だ。現在、修復を終えた3点の油彩画が、開催中の「2022年 コレクション展2―絵画修復プロジェクト記念―中川一政の思いをつなぐ。つたえる。」で公開されている。併せて7月9日には修復技術家・内藤朝子(NPO法人美術保存修復センター横浜・ゼネラルマネージャー)による講座「絵画修復から見つめる中川一政の世界」が行われ、修復過程での発見を通じてあらためて中川芸術の魅力が語られた。
中川一政(1893〜1991)は独学の画家だ。油彩を中心に、水墨、岩彩、書、陶芸、挿画など幅広く手がけ、97年の生涯を終えた。若くして詩人や歌人への道も開けていたが、文芸誌『白樺』で紹介されたゴッホやセザンヌに惹かれて画家の道へ。岸田劉生が結成した草土社を経て春陽会で活動し、戦後の洋画壇を牽引した。
東京生まれの中川が真鶴へ移住したのは1949年。真鶴半島西端の福浦港(神奈川・湯河原町)を写生地としたことがきっかけだった。1975年には文化勲章を受章。90歳を過ぎ、長く暮らした真鶴町へ作品の寄贈を申し出て、町も歓迎したことから、1989年、真鶴町立中川一政美術館が開館した。建築や寄贈作品の選定、図録の内容やチケットのデザインなど、中川の意向を反映してつくられた美術館だ。
福浦港のシリーズを修復して見えてきたこと
真鶴町直営の同館では、年度ごとに修復計画を定めて予算を計上し、作品修復事業を進めてきたが、予算には限りがある状況だった。そこへNPO法人美術保存修復センター横浜から今回の作品修復プロジェクトの申し出があり、快諾に至った。学芸員の加藤志帆との協働で2019年から作品調査をはじめ、選ばれたのは「福浦港」のシリーズのうちの《福浦》(1953年、60歳)、《海の村落》(1963年、70歳)、《福浦突堤》(1966年、73歳)の3点。画家の思いを次世代に伝える意義や修復文化を広く知らしめるため、2021年に約半年をかけた修復の過程が様々な媒体で公開されてきた。
加藤によれば「日本の原風景ともいえる福浦の景色を自分のものにしようと、自らのスタイルを確立するまで20年近くにわたって描き続けたシリーズ」で、展示や貸し出しの機会も多い。「晴れた日にはアトリエから画材を担いで林道を下って港へ行き制作し、アトリエに戻ってからも、納得がいかない部分は削ってまた描く。明暗法や遠近法といった伝統的な技法にとらわれず、対象をデフォルメし、色と線を強調させた画面をつくり上げていった」という。
油絵具の厚塗りや戸外制作、なおかつ描かれてから60〜70年が経過しているわりには見た目に著しい劣化・損傷はなかったが、今後も末長く鑑賞できるよう、画面の汚れを除去し、油絵具の亀裂やキャンバスの歪みなどを修復した。内藤が語った修復プロセスから主な例を挙げたい。
まず、3点とも共通して絵具層が厚く、亀裂や小さな浮きが認められた。そのため、膠で剥離止めを施し、さらに裏面から絵具層を固着強化する樹脂を含浸させて、今後の絵具層の剥離を抑えた。
また、《福浦》は、厚い絵具層の重みでキャンバスが波打っていたため、木枠を外して、下から優しく熱を当ててフラットニング(平滑化)を行った。一方、《海の村落》や《福浦突堤》は特注と思われる木製パネルに張られていた。「ペインティングナイフを叩きつけるようにして絵具を塗り重ねていく過程でキャンバスに穴が開くこともあったようで、強度のあるパネルをつくるようになったと思われます。そのため、重量はありますが、パネルに反りや歪みは見られませんでした」(内藤)
福浦シリーズの集大成といえる《福浦突堤》。この作品では、空にかかった薄雲の部分で不自然な欠損が見つかり、補彩した。「欠損部分に石膏と膠を混ぜた充填剤を充填し、表面をほんの少し彫刻します。その際、画家の筆致に合わせて彫刻しなければなりません。その後、不透明水彩絵具と修復用樹脂絵具で補彩します」。油絵だからといって油彩絵具で描くのではない。目視ではわからないが、修復家には50年・100年後でも紫外線を当てればどこを直したかすぐわかるように、かつ安全に除去可能な絵具・材料でなければならないのだ。
「もとの絵を描いた作家を尊重し、加筆はしないというのが修復の鉄則です。例えば、亀裂についても、ヘラの擦れなど、もともと作品にあったものか、後年のヒビなのか、デジタルマイクロスコープを使って見極めます。また、個人ではなくチームで作業し、誤った方向に行っていないか、常に情報交換や議論をしながら作業を進めていきます」(内藤)。
福浦時代の初期は集落のなかから港を描いているが、のちに海(堤防)側から集落を眺めて描く構図に定まっていったそうだ。また、今回の修復でキャンバスの裏面から植物の種子が見つかった。これは戸外で制作していたために付着したものだ。謎解きのようでもあり、学芸員と修復家の双方の視点で作品を見直す豊かな時間であった。
「美術館は生き物」という作家の思いを受け継ぐ
同館では現在、中川作品704点と画家旧蔵の美術コレクションなど計850点を所蔵している。初期から晩年までの作品が揃うコレクション展は、さまざまな視点で構成されている。福浦時代の後に手がけた「箱根駒ヶ岳」のシリーズでは、秘書の車に画材を積んで現地で制作したという。
西洋美術を専攻しイタリアに2年間留学していたこともある学芸員の加藤は、マジョリカ壺の図像研究のなかで、壺が描かれた絵画作品を探していて中川を知ったのだそうだ。そんな知見を生かした新しい見方も提示されている。
志賀直哉、武者小路実篤など交友関係も広かった中川は文学にも関心を持ち続け、書も手がけた。作陶などもすべて余技ではなく、全力で取り組んでいたことが窺える。
併せて、中川がコレクションした品々も展示。同館からすぐの県立自然公園の一角にはアトリエ一室が復元され、土日祝日に公開されている。
いっぽう、現在の真鶴町の人口は7000人弱、神奈川県で唯一過疎地に指定されており、美術館の運営面でも課題を抱えている。2021年はコロナ禍の影響で約5ヶ月休館し、白山市立松任中川一政記念美術館(石川県白山市、中川の母の故郷)との共同で開催した没後30年展に注力した。今年度はできるだけ長く開館できるよう、週休2日で時間短縮開館に切り替えている。また学芸員は、正規雇用で勤務5年になる加藤ひとり。事務は行政職員と分担できるが、展覧会企画や展示にとどまらずチラシ作成や配布、ホームページ更新など広報業務もこなさなければならず、ほかにも作品と著作権の問い合わせや他館への作品貸し出しなどの業務に追われる。ひとり学芸員は、1980年代終わりの地方美術館建設ブームから続く、全国の美術館・博物館に共通する問題であり、改善が必要ではないだろうか。
そんな加藤を支えるのはやはり来場者の声だ。「アンケートを見ると、全国からここを目指して来てくださる方が多いんですね。中川作品は、苦しくてもがいているんだろうなというところも見え隠れするのですが、年を重ねても前向きでエネルギッシュな作風から、作品を見る人々に生きる糧を与えてくれるように感じます。また、中川は自分の言葉で制作や作品について書き残してくれているので、画家本人の言葉を頼りに創作の意図や思いをみなさんに伝えたいです」。
「美術館は生き物」だという中川の思いを受け継ぎ、今後は学びの場づくりにも力を入れたいと語る加藤。真鶴で活動する子育て世代のグループや作家、NPO法人、町立の博物館、図書館などの施設とも連携を図っている。また、今秋には海とアートをテーマにしたワークショップを予定している。
地域の美術品を地域で守るために
最後に、美術保存修復センター横浜について補足したい。1999年に設立された青木絵画修復工房を前身とし、2011年にNPO法人美術保存修復センター横浜を設立。美術館、法人、個人などの依頼で、絵画にとどまらず、立体や書、仏像など広く美術品の修復活動を行っている。また、修復技術を継承していくために横浜絵画修復教室も運営。20年以上、イタリアのフィレンツェの工房で現地美術館、教会などの数百年前の油彩画を修復する研修も行っている。
「イタリアでは、国ばかりに頼らず、地元のものは地元で直しましょうという精神があり、世界的にも修復のための寄付はとても重要なこととされています」と内藤は語る。日本でも、美術品を修復して後世に伝える大切さを広めたいと、プロセスを展示する「修復展」も行っている。
取材を通じて、国や市町村などが連携して保存修復のネットワークを築いてほしいと同時に、私たち市民にも地域の美術を地域の力で守っていこうとする気持ちが大切だとあらためて思わされた。
半島全体が自然公園でもある真鶴町で、画家の暮らしを想像しながら真鶴町立中川一政美術館を訪れてみてはいかがだろうか。