京都で生まれ、ユニークなスタイルの建築から「哲学の建築家」とも評された建築家・白井晟一(1905〜83)。その白井が建築を手がけた渋谷区立松濤美術館が40周年を迎えるにあたり、同館で白井の活動や思想をたどる展覧会「白井晟一 入門」が開幕した。
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本展覧会は二部制となっており、第1部「白井晟一クロニクル」(10月23日~12月12日)ではオリジナル図面や建築模型、装丁などで白井の活動をたどる。そして第2部「Back to 1981 建物公開」(2022年1月4日~1月30日)では、美術館を白井がイメージした当時の姿に近づけて公開する。今回は、10月23日より始まった第1部のハイライトをレポートでお届けしたい。
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渋谷区立松濤美術館のエントランスのエレベーターホールには、ふたつの建築模型が展示されている。ひとつは、岡崎乾二郎の監修のもと武蔵野美術大学で制作された、白井の代表的建築である港区麻布台にある「ノアビル」の模型。そしてもうひとつは、未完の建築である「原爆堂」の建築模型だ。白井の建築の思想が端的に現れたふたつの模型を眼にして、来館者は2階の展示室へと進むことになる。
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序章「建築家となるまで」では、謎が多い白井が建築家として仕事をするようになるまでの足跡を、資料ともにたどる。
1905年に京都に生まれた白井は、正規の建築教育を受けていないとされており、独学の建築家とも称されてきた。しかし、今回の展覧会にあたって検証をしたところ、学んでいた京都高等工芸学校の図案科では近代建築のパイオニアである本野精吾が教鞭をとっており、その前任者も建築家・武田五一であったことから、その影響を受けた可能性があることがわかった。会場では、白井本人のものではないが、京都高等工芸学校図案科の講義ノートなどを展示。当時流行していたアール・ヌーボーやアール・デコの建築が教材となっており、白井もその薫陶を受けていた可能性が示唆される。
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卒業後の白井は渡独し、ハイデルベルク大学とベルリン大学で、哲学と美術史を学んだ。パリやモスクワにも足を伸ばしており、このときの経験と人的なネットワークがその後の建築家・白井の核を担うようになっていく。
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第1章「戦前期 渡欧をへて独学で建築家へ」では、まず白井の義理の兄である画家・近藤浩一路の周辺を取り上げる。近藤は新たに自宅兼アトリエを建てる際に、その建築関係の取り仕切りを白井に任せることとした。1936年に完成したこの近藤邸の建築を手伝ったことが、白井に建築家としての道を歩ませる大きな動機となった。
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さらに近藤経由で白井は中央公論社の社長であった嶋中雄作より仕事を受けるようになる。嶋中の別荘「嶋中山荘」や、嶋中の親友である評論家の清沢洌の別荘「清沢洌山荘」などを手がけた白井は、中央公論社の書籍のデザインにも携わっていく。現在も使用されている同社のロゴマークも、白井の手によるものだ。
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第3章「1950〜60年代 人々のただなかで空間をつくる」では、戦後の50年代初頭から終わりまでの作品を取り上げる。この頃の白井は、秋田で連続して仕事を手がけている。とくに湯沢市の稲住温泉ではいくつもの建築を手がけており、いまも残されていて現在も宿泊することができるものもある。展示された図面からは、この頃に独特の造形意識ができあがっていったことがわかる。
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また、秋田は米所で酒の製造が盛んであり、酒造をクライアントとした建築も多く手がけた。酒蔵の旦那集の会合のためにつくられた「四同舎(湯沢酒造会館)」では、当時としては珍しいコンクリートづくりのモダンな建物であり、市民ホール的な役割も担い、いまも現存している。
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さらに秋田での代表的な建築としては「秋ノ宮村役場」が挙げられるだろう。これは、白井が手がけた最初の公共建築で、雪国では不都合も多い大きな屋根が特徴だ。村の住民との折衝を経て生まれたこの建築は、いまも移築を経て人々によって維持されている。
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なお、この建築には広瀬鎌二が関わっていたことがわかっている。広瀬は戦後の住宅難の際に技術や生産性という方向から建築をとらえた建築家である、コンセプチュアルな建築家である白井とは真逆にも思われるが、この「秋ノ宮村役場」のときはともに仕事をしている。白井はこうした建築家との協働により、建築への知見を高めていったともいえる。
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また、この頃の白井は群馬でもいくつかの仕事をしている。前橋では「煥乎堂」という、当時珍しい2階建ての本屋であり、地域の文化センターとして機能した。建物は現存しないが、往時の写真や水飲み場の凝ったつくりのマケットなどから、建築に込められた高い理想がうかがえる。
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第4章「1960〜70年代 人の在る空間の深化」では、急速な経済成長をする日本において、白井が建築を通じてどのようなアプローチを時代に対して行ったのかを見ていく。
70年代より白井は大規模建築を手がけるようになった。白井を代表する建築のひとつである「親和銀行東京支店」もこの頃のものだ。東京・銀座の三原橋にあったこの建築は、ボリュームのある基壇と上部にまっすぐ伸びていく上部で構成されており、その後の「ノアビル」などにも共通する意匠がみられる。銀行の店舗ながらも、内部は礼拝堂のような雰囲気で、都心の一角にありながらも内部は非常に静かだったという。
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長崎を拠点とする親和銀行とは、白井は長い関係を築くことになる。とくに佐世保にある「親和銀行本店」は三期にわたり10年以上の時間をかけて建築を手がけ、内部は高級な調度品が設置されていた。会場では3期の建物それぞれの資料を展示し、地方銀行の建築においても、白井が高い理想を注ぎ込んでいたことがうかがえる。
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また、章とは別立てとなるが、実現していない建物として「原爆堂」の計画も模型や映像の再現とともに展示されている。「原爆堂」は1954年頃に、丸木位里・俊夫妻による《原爆の図》を展示するために計画。主室が水上に浮かび、地下を経由してギャラリーやホールにつながる独特の構造を、臨場感あふれるかたちで体感できる。
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終章の「1970〜80年代 永続する空間をもとめて」では、1980年代にさしかかる時代に取り組んだ建築のなかでも、とくに美術館建築に焦点を当てる。
白井にはいくつかの美術館の建築計画があったが、実現した美術館はふたつだけだ。本展が開催されている「渋谷区立松濤美術館」もそのひとつで、白井にとって初めて完成にいたった美術館であり、また晩年の代表作でもある。
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地上2階、地下2階の4層構造で、中心に大きな吹き抜け、その下部に噴水を設置し、池側にはどの階にもガラス窓が置かれたこの独特の建築空間を、展覧会とともに楽しんでもらいたい。
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なお、展覧会の最後には、白井のドローイングが展示されている。一般的なイメージの建築図面とはほど遠い、躍動的で自由なそのスケッチは、白井の内面を垣間見られるような貴重な資料として、来場者の記憶に残るだろう。
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