──旧原美術館の解体には多くの惜しむ声が聞こえてきます。日本、とくに東京では近代建築が相次いで解体の危機に瀕していますが、どのような背景があるのでしょうか?
旧原美術館は御殿山という一等地にあるため、存続は危ういのではないかと思っていました。まとまった敷地を手に入れるため、邸宅というのは再開発の対象として狙われやすいのが現状です。2002年に制定された都市再生特別措置法によって、開発がしやすくなっており、古いものを残そうという思想からは真逆の方向に進んでいる。
60年代以降は建築が経済成長の道具のように使われ始め、産業として巨大化していきました。例えばすでに取り壊しが発表されている丸の内の東京海上日動ビルは1974年竣工ですが、この頃からオフィスビルの需要が急激に高まり、建築の意味合いも変わっていったのです。それまでは、企業がイメージアップのために著名建築家に本社ビルを依頼し、一等地に建てるというケースが多かった。しかし70年代以降はそうではなく、大手の組織設計事務所がアトリエ系の建築家では手に負えないような超高層ビルを手がけ始めました。つまり、顔の見える風格のある建築ではなく、ただの不動産になってしまった。それが現在までずっと続いている、根深い問題なのです。
──経済成長を優先するためには近代建築の建築的価値というものは配慮されないと。
近代建築は敷地もゆったりとつくられており、立地もいいために狙い撃ちされやすいのです。すべてが金回りを優先に動いているので、建築の個別の価値というものは関心事ではない。重要文化財化されない限りこの開発圧力に抗しきれないのです。そんななかで、重文級の歴史的価値があり、残す手立てもあったはずの小規模な旧原美術館や原宿駅が残せないのは残念でなりません。
──日本の場合、築50年以上の歴史的建造物のうち、一定の評価を得たものは登録有形文化財として保存の対象になります。
明治の様式建築は残されていますが、戦後の建築についてはまったく評価を下していないのです。例えば、皇居のお濠端に面する戦後の建築で現存しているのは、日生劇場、パレスサイドビル、東京海上日動ビルくらい。日生劇場も帝国ホテルを含む大規模再開発に隣接しており、危ういと思っています。歴史化されていない戦後の近代建築というものをいま保護しなければ、例えば海外の研究者が日本に来て近代建築を調べようと思っても戦後の現物がひとつもない、とい極めて貧しい事態になってしまいます。
──どうすれば近代建築を守っていけるのでしょうか。
例えば移転・新築の候補にもなった前川國男建築の宮城県美術館や、広島の被爆建物である「旧陸軍被服支廠」などは、市民の方々が反対の声を上げてその計画が断念されました。一般の方々がその建築に興味を持って接していたからこそ、そうした動きが生まれたという点は重要です。日本では大学で建築学科に進まない限りは戦後建築について学ぶチャンネルがありませんが、建築を身近に感じる人々がいるかいないかは大きな違いなのです。フィンランドのように、初等教育で建築を学ぶ環境をつくり出すことも重要な課題だと思います。
また建築の歴史を顧みることも必要です。東京海上日動ビルにしても、なぜあの建築を前川國男に頼んだのか、なぜ敷地のなかに公開空地をつくったのかということが無視されている。たんに50年経ったら壊す、というのはこのコロナ下で改めて問われている持続可能性という視点からも時代に逆行していると思います。
世界的にSDGsが謳われるなかで、建設産業だけが暴走している状態というのは、いずれ破綻をきたすのではないでしょうか。例えば日本で最初の超高層ビルである霞が関ビルディングは、ある一定の余白を持って設計されており、そのため現代にも通用するインフラの入れ替えに対応できています。しかし現代の超高層ビルにはそういう余白がなく、かえって将来的な不安が大きいのです。
モニュメンタルな戦前の建築も重要ですが、それとは次元の異なる親しみやすい空間を実現させた戦後の上質な近代建築が身近にある環境を守らないと、精神的な貧しさに陥ってしまうのではないでしょうか。利己的な囲い込みではなく、利他的な建築を蓄積していく回路を切り拓くことが、街を良くすることにつながるのだと思います。