1974年に「生誕100年記念 上村松園展」が開催され、また上村松園の作品を総計10点コレクションしているように京都市京セラ美術館にとって上村松園は重要な作家だ。回顧展は第1章「修業—二人の師の教え1887-1902」から始まる。京都府画学校で師事した「今蕭白」こと鈴木松年のもとで人物画を学び、力強い肉太の描線を受け継いだ松園は、松年門下として第3回内国勧業博覧会に《四季美人図》 を出品してデビュー。女性の成長を四季の移ろいに重ね合わせた表現が、松園の出発点となった。
デビュー翌年には、松年の許しを得て円山四条派を継承する画家の幸野楳嶺の画塾に移籍し、柔らかな描線と華やかな構図を学ぶ。ふたりの師から学んだ描法が松園のなかで融合し、自身の表現の探求が進んでいく。
第2章のタイトルは「出発—写生と古画の探求1903-1912」。本を覗き込む姉妹をスナップ写真のように生き生きと描いた《姉妹三人》(1903、通期展示)では、着物の色を描き分け3人の画面上のバランスを考慮したコンポジションが印象的なように、現実の一場面を活写するような写生力を高めたのがこの時期だ。また、夏の夜の風情を描いた屏風絵《虫の音》(1908、前期展示)が江戸時代初期の遊楽図に、なかでも《彦根屏風》に想を得たとされているように、江戸の浮世絵に江戸風俗の画題を求める古画の探求も行った。
1907年には文展が開設され、出品するごとに受賞を重ねるが、京人形のように美しい美人画と評価されるいっぽう、その肌の下には血が通っていないと、近代絵画の視点から厳しく批評されることもあったという。
続く第3章「模索—画壇の流行から伝統の古典へ1913-1926」では、先述の批評から、描かれた女性の心理描写に取り組んだ作品が数々展示されている。《舞仕度》(1914、前期展示)に描かれているのは、舞の出番を待つ舞い手の女性と、その背後で備える3名の囃子手。舞い手の緊張した面持ちとくつろいだ雰囲気の囃子手の対照的な様子が、描かれた人物の内面を想像させる。またこの時期、松園は能楽師・金剛巌に師事して謡曲を始めており、謡曲「葵上」の六条御息所が嫉妬の炎に燃える形相を《焰》(1918、前期展示)に描くなど、絵画作品のモチーフとしても芸能がたびたび登場する。松園の孫にして日本画家である上村淳之は「この頃の松園は、怨霊や天女のように架空の存在を描くことで、存在とは何か、リアリズムとは何かという問いの答えを探り、結論を出せずに過ごしたようだ」と話す。
清少納言や紫式部、小野小町などの才媛を描き続けてきた松園だが、1917〜1918年ごろに発表され、以後行方不明となっていた《清少納言》(通期展示)が100年ぶりに発見され、展示されているのもこの章だ。
第4章は「確立—松園様式の美人画1927-1938」。昭和に入り、皇室に献上する御用画や名家からの依頼を次々に受け、平安の王朝風俗を題材に多くの作品を手がけた松園。ひとつの大きな転機となったのが、1934年の最愛の母との別離だ。記憶に残る母を追慕する思いで、結婚・出産の証として眉を剃り落とした青眉にお歯黒の母が、子を抱く姿を《母子》(1934、前期展示)に描くなど、美人画に母性の要素が加わってくる。
最後の第5章は「円熟—絵三昧の境地1939-1949」。画壇の動向から隔絶し、長年書き溜めてきた縮図帖や実物資料、自身が美人画において参照した各時代の女性風俗から、衣裳も髪型も多様に描き分けながら理想の女性像を探求した。章のタイトルにふさわしい完成度の作品が並び、季節ごとの空気を感じさせながら華やかに描かれた美人画が展示のクライマックスを彩る。
シンプルな輪郭線の描写が初々しい初期作品に始まり、時代や文化も多様に美人画のあり方を模索した時期を経て、円熟期に至り不世出の美人画家として語り継がれることになった上村松園。1933年に京都・岡崎に誕生し、その歴史と風格を受け継ぎながら2020年にリニューアルオープンした京都市京セラ美術館こそ、その画業をたどる大規模な展示にふさわしい美術館だ。