書家でありアーティストの紫舟(ししゅう)が、2019年12月から2020年1月末までのおよそ1ヵ月半にわたり、ラスベガスのリゾートホテル「ベラージオ」内にあるアーティスト・スタジオで公開制作を行った。
今回のプロジェクトは、ホテルを所有するMGMリゾーツ・インターナショナルが企画したもので、「アーティスト・イン・レジデンス」(以下、レジデンス)と呼ばれる地域滞在型の作品制作プログラムに、参加アーティスとして紫舟を招へい。制作過程はすべて公開され、紫舟は書やアート作品の制作とあわせて、巨大な書のライブパフォーマンス、スタジオ併設のギャラリースペースで作品展を実施した。
制作の拠点となったアーティスト・スタジオは、ベラージオのロビーからつながる通路沿いに位置している。一面がガラス張りで、そこに行けば、制作風景を覗くことができる。アーティストに直接声をかけてコミュニケーションを取ることも可能だ。ベラージオは1日約3万人が訪れる巨大ホテルのため、人通りも多く、制作中はつねに衆目にさらされることになる。
紫舟は6歳から書道の世界に入り、大学卒業後に一時は会社員になったものの、志を貫徹するためプロの書家に転向した。筆と墨を用いる伝統的な書道の技法を踏襲しながらも、書ができる時間軸までもを可視化し、書を立体造形として表現した3D作品「書のキュビズム」シリーズ。日本の文学と美術の密接さを作品化した独創的なアート作品。「チームラボ」とコラボレーションし、文字が時代によって「彫→書→打」とメディアを変えてきた文字の歴史を遡ったデジタル・インスタレーション。それらの作品は「書の領域を超えた作品」として、日本国内はもちろん世界でも高い評価を得ている。
2014年にフランス・ルーヴル美術館の地下会場にて開催された「フランス国民美術協会展」では、「北斎は立体を平面に、紫舟は平面を立体にした」と評され、最高位である審査員賞金賞を受賞。ほかにもイタリアやスイス、スウェーデン、エジプトなど各国で作品を展示し、世界に向けて日本の文化と思想を発信する活動を続けている。
多くの観客が見守るなか、真っ白な3メートルの和紙を1枚立てた上に、プロジェクションマッピングのように徐々に現れたのは、アメリカのシンボルである「鷲(イーグル)」。赤く縁取られた「勇壮(ゆうそう)」の2文字に向かって羽ばたいていくストーリーをもたせたライブパフォーマンスだ。日本の「書」とアートを融合させたこの作品を、わずか20分ほどで完成させた紫舟の圧倒的なパフォーマンスに、会場から割れんばかりの拍手が起きた。紫舟いわく、デジタルテクノロジーを使わなくとも、日本の伝統文化でデジタル以上のことができるそうだ。そこには、和紙の力(墨を一気に吸収する、植物繊維が絡むため破れにくい)や、ろうけつ染め(ろうが墨をはじき、和紙の色が残って色が白く抜ける)といった、日本の匠の伝統的な技が生きている。
「作品制作にあたっては、ラスベガスの人たちに『見てもらう』ことを強く意識しました」と紫舟は振り返る。
「ラスベガスにいる人たちは、ネオンの強い光の中で多くの時間を過ごし、また世界最高レベルのダイナミックなショーやパフォーマンスを鑑賞しています。こうした刺激的な色や音の世界に慣れ親しんだ人たちに対して、例えば日本画や水墨画のような繊細で複雑な表現は、目にとまることも難しく、素通りされてしまうでしょう。濃い味の調味料に慣れた人が、繊細な出汁を味わうことが難しいように。ここでは、この地にいる人々の興味を引き、作品の制作過程と作品がどう見えて、何を喜んでもらうか、そのためにできることを考えました」。
紫舟は今回のレジデンス期間中に4点の作品を完成させた。いずれも数メートルを超えるサイズの大作だ。1ヶ月半の間にこれほどの数をつくり上げるのは、生半可なことではない。
「私にとってこのスタジオは、作品を制作する場であると同時に、観客を『魅了する』デモンストレーションの場。書で培った高い集中力や、一本の筆から生まれる様々な表現、作品に向かう精神性、作品が完成していく臨場感を、訪れた方々に感じてもらっています」。
こだわったのは「見る人に楽しんでもらいたい」という思いだ。下絵など時間のかかるベースづくりの作業はあらかじめ日本で行い、ラスベガスのスタジオでは、スピーディかつ同時並行的に、複数の作品を完成させていった。
また、たとえ制作中であっても、来場者からの質問にはできるかぎり手を止めてその場で応じたという。さらに、興味を持った人には、紫舟みずからスタジオの扉を開け、制作の現場に呼び入れた。「私の役目は、日本の思想や伝統文化の魅力を、ひとりでも多くの人に伝えること」と話す紫舟の目に、迷いの色はない。
なかでも「見せる」ことをもっとも意識したのが、金屏風を使った作品《天晴れ日本》だ。ガラス張りの正面に置かれた縦1.75メートル、横3.67メートルの金屏風には、男女と鳥をモチーフにした浮世絵スタイルの絵画が描かれ、そのすぐ前には、墨跡を模し3Dにした鉄製の彫刻が吊り下げられている。
この黒い彫刻は「絵のアウトライン」の役目を果たす。ちょうど鑑賞者がスタジオ前で立ち止まる位置からガラス越しに作品を覗くと、宙に浮いた彫刻の線と金屏風の絵がぴったりと重なり、まるで「浮世絵」に見える仕組みだ。
「かつて葛飾北斎や浮世絵が世界中の人たちを驚かせた理由のひとつは、『すべてに描かれた黒い輪郭線(アウトライン)』。西洋絵画は絵を光と影の面で描き構成していく、いっぽうの日本の絵は『描く』ではなく線で『書く』だったんですね。書道は日本で1300年以上の歴史を持つ伝統文化。筆と墨は日本人にとって、じつに長い期間、あまりにも身近な存在。当時の日本人にとっては『書の筆と墨』が当たり前で、影響が強すぎたので、浮世絵なども本来存在しない黒い線でアウトラインを『書いた』と考えています」。
浮世絵では文字を書くように、筆と墨の黒い輪郭線で下絵を描き、色をのせていったと紫舟は考察する。
「浮世絵を新しい概念で再構築しています。ここでは、本来浮世絵ができていく工程にそって作品を作ることで、日本を発信しました。まずは、アウトラインを描くように墨跡彫刻を吊り下げ、その後ろに置いた金屏風に色をのせていきました。来場者からは、黒い輪郭線の中が少しずつ色づいていくように見えたことでしょう」。
ほかの3点の絵画作品は、「祈り」を表現。紫舟が数年前に「お釈迦様」の教えに興味を持ち、南アジアに何度も足を運ぶなかで得た「学び」から生まれたものだ。「世の中にある『お釈迦様』の絵は当時の御姿を模したもの。そうではなく現在の御姿を瞑想して生まれた」という《御釈迦様》。チベット最奥の聖地カイラス山の上にあると言われる神の扉から飛び出した、山をも超える大きさの火の鳥《ノック・ガラウェイ》。自身が洞窟で祈りを捧げていた際に感じたという南アジアの神様を絵画にした《ナカラー》。
「当初は淡く繊細な層を、複雑に重ねていく予定でつくっていました。しかし、ラスベガスの景色の鮮やかさ、ダイナミックな表現を見て、表現方法を大きく変更しました。私が表現したい絵のイメージを、ラスベガスの人たちにも同じように感じてもらうことが狙いです。私がプロとして意識しているのは、好きなものを作るのではなく、やるべきことをする、ということです」。
レジデンスを訪れたラスベガス在住だという30代のアメリカ人女性は、紫舟の作品に対して「おしゃれで美しく、とても面白い!」と素直な感想をもらす。以前から紫舟の名前は知っていたが、作品を直に見るのはこれが初めてだという。
女性はこうも語ってくれた。 「私がとくに気に入ったのは金屏風です。カラフルで派手で、まっさきに目に飛び込んできました。こういった日本らしい作品をラスベガスで見られる機会は珍しい。ラスベガスがカジノのイメージだけでなく、アートやカルチャーを楽しめる場所になってきていることが、嬉しいです」。
「ラスベガスの人々は、つねに新しい体験を求めています」と話すのは、MGMリゾーツ アート&カルチャー部門でエクゼクティブ・ディレクターを務めるタリッサ・ティベルティ。今回のレジデンスを統括したひとりだ。
「紫舟さんは書をベースとしたオリジナリティあふれるアート作品の制作と、来場者と対話しながら制作を進めるというインタラクティブな姿勢によって、見る人たちに新鮮で刺激的なアート体験を提供してくれました。私たちのアーティスト・イン・レジデンスに紫舟さんを迎えられたことを、心から誇らしく思います」。
紫舟が今回制作した作品のうち《ノック・ガラウェイ》は、2020年3月中旬から9月中旬まで、ベラージオのロビー前にあるコンサバトリーで展示される予定だ。
レジデンスを終えた紫舟は「私にとって、ラスベガスは特別な場所になりました」と笑顔で話す。
「1ヶ月半の滞在で、たくさんの人が好意的な感想を寄せてくださいました。日本の伝統美術は、西洋のアートとは好まれる密度や構図、色などがまったく異なります。しかし、ほんの少しの『目にとまるための工夫』を施すことで、十分に通用するのだと実感できました」。