2024.3.15

キュレーターが語る「スーラージュと森田子龍」(兵庫県立美術館)

兵庫県立美術館で3月16日から5月19日まで開催される「スーラージュと森田子龍」。「フランス現代絵画の巨匠」と「前衛書の旗手である世界的書家」の二人展が開催された経緯、ふたりの関係について担当学芸員の鈴木慈子に話を聞いた。

聞き手=中島良平

展示風景より 提供=兵庫県立美術館
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──スーラージュ美術館があるフランスのアヴェロン県と兵庫県との20年を超える友好提携を記念して、今回の二人展が実現しました。また、1950年代から直接交流があったとも伺っています。

 直接的なきっかけとしては、2018年に当館の所蔵品16点をお貸しして、スーラージュ美術館で具体美術協会(以下、具体)の展覧会が開催されたことに始まります。その具体の展示に呼応するかたちで、2020年に県同士の交流20周年を記念してスーラージュ展を開催しようという話が生まれました。その際に、スーラージュが1950年代より交流のあった前衛書家と、なかでも森田子龍は兵庫県出身ですし、森田はモノクロームの作品を描く画家たちを「白黒の仲間」としてスーラージュのことも言及していたので、二人展にすることで展覧会企画が進みました。

展示風景より 提供=兵庫県立美術館

──森田が「白黒の仲間」として抽象画家に共感を覚えるようになった前提として、旧態依然とした書壇との決別があったようですが、その経緯を聞かせていただけますか。

 森田は戦後「前衛書」と呼ばれる実験的な書表現の草分けであった上田桑鳩に師事していたのですが、新しい書の中心的存在であった「書道芸術」の編集に携わりながら、書の世界が未熟であり、中心の柱となる理論をもっていないことを心もとなく感じていたようです。そして1952年1月に、井上有一、江口草玄、関谷義道、中村木子、森田の5名で京都・龍安寺に集まり、師である上田と袂を分かち、新しい書のあり方を探求する「墨人会」を結成しました。

 同時に森田は墨人会の活動と並行して、1952年秋に大阪で創立された現代美術懇談会(ゲンビ)にも積極的に参加していました。絵画や彫刻はもちろんですが、ゲンビには生け花や書の作家も関わっており、ジャンルの壁を取り払おうという意識を参加者たちが共有していました。

──墨人会のメンバーたちが共有していた「前衛書」観は、書の外に目を向けて育まれたものだったのですね。

 そう言うことができるかもしれません。しかし、森田子龍に関していえば文字を離れなかった作家であり、一見読めないような文字であったとしても、あくまでも字を書いているのですね。同志のひとりである井上有一は一時期、もうほとんど絵によったものを、絵に振り切ったものを書いていた。そうした程度の差はあります。しかしながら、根底として共有していた観点で言えば、森田が編集に携わっていた雑誌「墨美(ぼくび)」においては、文字によらない表現を論評する「α部」を設け、書でも絵でもないものをみんなで追求していた。書の埒外に置かれてしまう表現を排斥せず、その造型の核心に触れることで、言語を介さずに理解できる書の国際性を獲得できるという森田の考えが、「α部」の設立動機となったのですが、そこはみんな共有していた。そのうえでメンバーそれぞれが、どこまでが書でどこからが書ではないのかを考えて表現を探求していたように思います。

森田子龍 底 1955 京都国立近代美術館

──「墨美」誌においては、抽象表現を題材に行った座談会を記事にするなど、早くから西洋の抽象画を取り上げていました。

 抽象絵画の余白に着目してジャクソン・ポロックを取り上げたり、版画で有名なスタンリー・ウィリアム・ヘイターを「線の美」と題する特集で紹介したり、「墨美」は早くから西洋の同時代の表現に目を向けていました。森田は具体の吉原治良などとも交流がありましたが、具体の機関誌である「具体」よりも先んじてそのような画家たちを取り上げていたので、西洋の同時代の動向を鋭敏にキャッチしていたことがわかります。

──1951年にフランスの当時の中堅画家たちを紹介する「サロン・ド・メ」展が日本で開催され、アンドレ・マルシャンやエドゥアール・ピニオンらとともにスーラージュの作品も展示されました。そうした同時代の表現が、当時の日本ではどのように受け止められたのでしょうか。

 1951年という時代背景からすると、日本が国際社会に復帰していく流れのなかで、やはりアートの中心地であるパリから──50年代後半になるとニューヨークが現代美術の中心となっていきますが──同時代の作家たちの表現がやってくるのは、衝撃的だったことが想像できます。ちょうど国際美術展も生まれ始めたころで、そうした場に参加する作家たちの作品ということで、紛れもなく先端の表現だったわけですから。

──鈴木さんが展覧会図録のテキストで触れられていましたが、「書の美」誌(「墨美」創刊前に子龍が編集に携わっていた雑誌)において画家の長谷川三郎がスーラージュの絵画表現を「落ち着いた謹厳な楷書の世界である」と評していたというのが、とても印象的でした。

 書に近いものを画面から感じていたのだろうと思います。同じ時期に紹介されたアンス・アルトゥングなどもそうですが、ピカソやマティスなどと比べても線的な表現が書に近いものとして受け止められていたようです。長谷川は東西双方への眼差しの鋭い人でしたし、書いている媒体が「書の美」ということも関係すると思いますが、「楷書」というのは的を射た表現ですよね。

──子龍らの前衛書とスーラージュの絵画には、白い画面に黒い線で描かれたものだという共通点が見て取れます。しかしながら、子龍をはじめとする前衛書家たちが西洋の抽象絵画に直接的に影響を受けていたわけではなく、スーラージュなどの抽象画家が書を参照していたわけではないのですよね。

 子龍は国境を超えたつながりとして「白黒の仲間」と表現したわけですが、スーラージュもまた影響関係ではなく「出会い」というべきものだったと述べています。たとえば、子龍は抽象絵画に対して批判的な目ももっていました。自分たちは(墨を含んだ筆を画面に置いたら)一発で決めるが、画家たちは何遍も描き直すと。いっぽうでスーラージュは、文字には意味があることを意識していて、自分たちの表現と似た部分もあるが「音の聞こえないダンスのようなもの」と表現してもいる。書いてある文字の意味がわからないから、十全に書を理解しているとは思わないのだと。

──互いの表現に対する違和感を持ちながらも、異なる背景や動機で生まれた画面に共通点があることを「出会い」だと表現したのですね。互いに敬意を払いながら、区別もしているように考えられます。

 そうかもしれませんね。動きにおいては共感するポイントがあったようで、書にはやはり、運筆、筆勢というものがあり、それが大きな特徴のひとつです。森田はスーラージュの作品から、モノクロームの仕事における動きを感じていたようです。一方で、前述したようにポロックも紹介していますが、ポロックのオールオーバーな画面表現というのは書の世界とはだいぶ違うものなので、割と違和感があったようです。

──「サロン・ド・メ」展の日本での開催が1951年、1955年には東京国立近代美術館で「現代日本の書・墨の芸術」展が開かれ、ヨーロッパに巡回しました。

 日本では、図録の編集を森田が担い、「墨美」を彷彿させるような判型やレイアウトで、大規模な国際展において出品作家としてのみではなく森田の働きは大きかったようです。また、ヨーロッパの会場では、「記号絵画」としてスーラージュをはじめとするヨーロッパの画家の作品も別室に並べられたのですが、これはヨーロッパ側からの企画案だったので、抽象表現における記号性や意味性を考えさせるメディアとして書をとらえていたのだと考えられます。

──スーラージュが初来日した1958年に、森田と直接の交流が生まれたそうですね。

 「墨美」にはスーラージュとザオ・ウーキーとの座談会の様子が収録され、その3号あとの号では「時間」が特集テーマとなり、物理学者の湯川秀樹や禅の研究者である久松真一らが座談会に登場しました。「時間」「空間」が本当に生かされるとはどのようなことであるべきか、美術や書における時間の意味などが話題となり、スーラージュが先の座談会で「書は時間的に動いていて時間を超えていない」と話していたことにも言及されました。

ピエール・スーラージュ 絵画 200×150 cm、1950年4月14日 スーラージュ美術館
© Adagp, Paris/ Photo : musée Soulages, Rodez/Vincent Cunillère

──一度墨を含ませたら一筆で終わらせるというような書の決まりごとが、スーラージュの「時間を超えていない」という言葉の意味したことなのでしょうか。

 おそらくそれもですし、字を書くという決まりごとも制約とスーラージュは考えたのかもしれません。しかし、森田はそうではなく、生命力や命、実存といった哲学的な命題が書にはあり、それによって書が時間を超越した表現であることを証明していると考えたようです。書の決まりごとを制約としてとらえては、本質的なものは理解できないというのが森田の主張です。とはいえ、森田は書と抽象絵画を「出会い」として肯定的に考えていたので、スーラージュの考えを全面的に批判したわけではありませんし、スーラージュも同様だったと考えています。

──1963年には森田がパリでスーラージュ夫妻と再会したそうですね。パリでも絵画論などが交わされたのでしょうか。

 子龍の日記には、時間が足りなかったので今度はゆっくり会いましょうと言われた、といったようなことは書かれていましたが、具体的に何を話したのかはほとんど書かれていないのですね。興味深いところなのでとても残念ですが、ただ、すごく親切にしてもらったようで、スーラージュさんに教えてもらった画廊に行ったとか、国立近代美術館に行ってスーラージュさんの作品を確認したとか、古い時代のものへの興味を共有していたようで人類博物館を薦めてもらって訪れたとか、そういったことは書かれていました。

森田子龍 龍 1965 清荒神清澄寺

──スーラージュも子龍も「空間」「時間」といったことにとても意識的だったと思うのですが、今回の二人展では、どのような展示プランを考えていらっしゃいますか。

 生前、スーラージュは自分の作品が誰かの作品と一緒に並べられることを好まなかったみたいで、分けた展示にしてほしいとスーラージュ美術館の担当者からも最初に言われました。なので、基本的にはひとつの区画にどちらかの作家の作品を展示し、森田を見たら次にスーラージュ、再び森田、またスーラージュ、というように交互に、基本的に制作年の時系列で展示します。森田が漆を使い始めた時期が見えたり、スーラージュが《outrenoir(黒の向こう)》というシリーズをつくり始めたことがわかったりするような、エポックの区切りが見えるような展開にしたいと考えています。

──それぞれの作品の画面の余白が、あるいは黒が、展示室の空間とつながるような展覧会になることが想像できます。

 今回は、1951年の「サロン・ド・メ」展に展示されたスーラージュの作品が73年ぶりに来日しますし、日本で初所蔵された作品も大原美術館さんからお借りして展示するのですが、空間で作品と向き合うと、スーラージュ作品は1点が大きな破壊力のような力をもっていることが感じられるのですね。ゆっくりと、おそらくすごく長い時間見続けたくなるような力です。森田子龍の作品もそれは同様です。

 兵庫県立美術館は安藤忠雄さんによる建築も特徴的です。スーラージュさんは2022年に他界されましたが、建築にも大きな関心を寄せていたと聞いているので、この空間でふたりの作品が展示された空間を体感していただきたかったですね。

 なお、4月25日から7月28日まで当館で開催予定の「コレクション展Ⅰ」では「スーラージュと森田子龍」展に連動して、海を越えた2人の熱い交流の時代に海外て活躍した今井俊満、堂本尚郎、菅井汲、岡田謙三の作品を取り上げるほか、書と文字に魅了された同時代の海外作家の版画作品を展示予定です。こちらも合わせてご覧いただければと思います。

ピエール・スーラージュ 紙にクルミ染料 63×50 cm、1949年 1949 スーラージュ美術館
© Adagp, Paris/ Photo : musée Soulages, Rodez/Christian Bousquet