2021.3.13

会田誠とヨーゼフ・ボイスの切っても切れない関係性。「重要だけど批判せずにもいられない」

今年4月の豊田市美術館を皮切りに開催される「ボイス+パレルモ」展。この開催を機に、ヨーゼフ・ボイスを直接的に参照した作品を手がけたこともあるアーティスト・会田誠にインタビュー。ボイスという人物と会田の関係性とは? またボイスがいまなお与え続ける影響とは?

聞き手=鈴木俊晴(豊田市美術館学芸員) ポートレート撮影=稲葉真

会田誠
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「ボイス的アート」は日本じゃ根づかない

──「ボイス+パレルモ」展(4月3日〜6月20日)はヨーゼフ・ボイスを久しぶりに日本で紹介する展覧会となります。ボイスに直接会ったことがある人はいますが、そうした方々の発言はすでに蓄積されてきている。今回はそうではなく、異なる角度から言葉を与えてくれる方として会田さんが浮かびました。2018年に行われた会田さんの展覧会「GROUND NO PLAN」では《アーティスティック・ダンディ》という作品で直接ボイスに言及されているほか、著書『げいさい』(文藝春秋社)にもボイスが登場します。作家としてこれまで活動するなかで、折に触れてボイスが関わっていると思いますが、まずはボイスとの出会いをお聞かせいただけますか?

 青春小説である『げいさい』に描いたように、僕の世代の美大生はボイスの来日(1984)とその死(1986)を経験していて、当時は一番話題になっていたことでしたね。当然僕の耳にもよく入ってきたんですが、僕はすぐボイスに飛びつくタイプではなかった。ただ周りではボイスに強い影響を受けてる人がいたり、坂口寛敏先生──当時は非常勤講師だったと思います──がドイツ留学から戻ってきて、熱心にボイスを含めたヨーロッパの現代美術の最新動向を話すのを聞いたりしましたね。彼は学生を募ってワークショップをやっていましたが、それもボイスの学生を集めて対話させるスタイルを模したものだったんですよ。僕もそのワークショップに参加したんだけど、「さあ喋ろう」となってもドイツ人のような活発な議論にならずに、企画倒れみたいな雰囲気になっちゃった(笑)。そんなこともあって、「ボイス的アート」は日本じゃ根づかないわ、という感想というか諦めみたいなものもあった学生時代でしたね。

 80年代終わりには北川フラムさんが音頭を取っていた「アパルトヘイト否(ノン)!国際美術展」のポスターが藝大に貼られていて、意識が高い学生はボランティアに参加するということもありました。これも「ボイス的」あるいは「ドクメンタ的」なアートが僕の間近に来た例のひとつだったと記憶してるんですけど、僕はそれには参加しませんでした。

ヨーゼフ・ボイス そして我々の中で…我々の下で…大地は下に(1965年のアクション) bpk | Sprengel Museum Hannover, Archiv Heinrich Riebesehl, Leihgabe Land Niedersachsen / Heinrich Riebesehl / distributed by AMFVG Bild-Kunst, Bonn & JASPAR, Tokyo, 2021 E4044

──とすると、90年代に入ると美術家として活動を始められますが、その時点ではボイスは会田さんにとって距離のある存在だったんですね。

 僕の絵画は素直な描き方ではなくて、絵画の形式を芝居じみて使うタイプで、ジェフ・クーンズにような、アメリカ美術のスタイルだったんですね。つまり、アンディ・ウォーホルの流れだった。学生時代にボイスの活動を見てた頃も、じつはボイスよりデュシャンに興味があって、デュシャンのちょっと嫌味っぽいニヒルな笑いとか、そういうものを自分のなかに取り入れようとしてたんだと思います。

会田誠

「ボイス的」なものが出てきたNY時代

──ボイスは会田さんからはずいぶん敬遠されている存在だったんですね。

 振り返ってみると、ボイスは知っているし時代的に馴染みはあるんだけれども、あまり近づかないタイプだったんですね。これはあるインタビューでも言ったことなんですけれど、デュシャンとウォーホルとボイスがつくる三角形がいつの間にか僕の頭の中にできあがっていた。この三角形のどこかに現代美術の表現はある、ということなんですが(自分でもこれは単純すぎるほど単純な考え方だとはわかっていますが、僕には有効な考え方)、ボイスはこの大切な三角形の一角だなと思いつつ、やはり馴染みがない存在でした。

 ですが、2000年(当時35歳)にACC(アジアン・カルチュラル・カウンシル)の招待でニューヨークに行ったとき、僕なりにですけど、だんだんとボイス的なものが出てきたような気がするんですよね。

──それは何かをご覧になったことがきっかけですか? 

 美術館でボイスの大きな展覧会を見たとかそういうことではなく、よくわからないんです。だんだん絵画を演技じみて描くスタイルに飽きてきた、ということもあるのかもしれないし、世界各国からきたアーティストと多少交流して、インターナショナルな空気を吸ったこともあるかもしれない。

 これは私生活の変化とも関係した話です。ニューヨークから帰ってきて、結婚して子供が産まれ、僕は父になった。で、ミヅマアートギャラリーの三潴さんから成果を見せろと言われて、「会田誠・岡田(会田)裕子・会田寅次郎 三人展」(2001)という半分冗談みたいな展覧会を企画したんです。その時に出品したのが《新宿御苑大改造計画》。

奥──新宿御苑大改造計画 2001 シナベニヤ、黒板塗料、チョーク 182×846cm
手前──《新宿御苑大改造計画》ジオラマ 2018 ミクストメディア 27×120×95cm
制作協力=株式会社アレグロ 展示風景=会田誠展「GROUND NO PLAN」、東京、2018 撮影=宮島径 
© AIDA Makoto Courtesy Mizuma Art Gallery

 ニューヨークでは半年滞在の予定を3ヶ月延長したのですが、その期間はアトリエがなくなりやることもなくなって、近くのセントラルパークを散歩して呆然と一日を過ごすというような日々が続いてたんです。作品をつくってやろうとか、展覧会で発表してやろうという意識は完全になしで、漠然と「人間の住む場所」なんかについて考えていた。そのなかで東京の公園のことなどを思い出してたときに、頭の中にいつのまにかできあがっていたのが新宿御苑の改造案でした。

 これをもしアートとして見せるとしたら、僕の三角形(デュシャンとウォーホルとボイス)のなかで言ったらボイスの「角」に近いものだなぁと思ったこともあって、素材をわかりやすく黒板とチョークにしたんです。この作品がボイス寄りだということが伝わるといいな、みたいな理由で(笑)。

 その頃から「アートという枠じゃなくったっていいんじゃないか」と思うことが多くなったというか......90年代の僕の活動は「美術」というジャンルがあって、それを皮肉ることが多かった。けれど、そういうことはもうあまりしなくていいかなと思うようになって、すると自然とボイス的なものが頭をもたげてきたんだと思います。

会田誠

──家族3人での作品展示としては、「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展(東京都現代美術館、2015)で発表された《檄》もありますね。

 この作品は美術館側に「外せ」と言われて僕が抵抗したという騒動があるんですけど、そのことはちょっと置いといて、つくるときはやはりボイスのことが頭にありました。

 僕は2011年からTwitterを始めたのですが、それをやるなかで、アーティストという特別な身分が何事かを世間に発信することの意味を、ボイス絡みで──簡単に言えば、ボイスが語った直接民主主義とか「人間は誰でも芸術家である」という言葉とかを起点に──考えることが多くなったんです。そんななか、 家族3人(とくに息子はまったく美術家という条件は満たしてない一般的な中学生でしたが)が呼ばれて展示するとはどういうことなのかと考えたんですよね。ボイスの時代ではない、このSNS時代においてどうなんだろうと。

 考えたうえで、「こういう感じでならやっていいだろう」と僕なりにかたちにしたのが《檄》でした。ボイスの「誰もが芸術家」は重要な言葉だとは思うんだけれど、僕は正しい結論とも思っていない。アーティストと一般人の境目とは何かという問いの答えは見つからないままだし、試行錯誤を続けているところです。

会田家 檄 2015 布、墨 509.2×180cm
展示風景=「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」東京都現代美術館、2015
撮影=宮島径 © AIDA Family Courtesy Mizuma Art Gallery

──その後、2018年の個展「GROUND NO PLAN」で発表された《アーティスティック・ダンディー》では直接的にボイスを参照されていますが、それはなぜですか? どのような心境の変化があったのでしょう?

 大林財団の「都市のヴィジョン−Obayashi Foundation Research Program」(*)に選ばれて、本腰を入れて(展示プランを)考えだしたら精神的な戦いが大変だったんですよね。もがいてるなかで、何度か脳裏に浮かんだのがボイスでした。

 展覧会のメインは「セカンド・フロアリズム」という架空の建築運動みたいなものを立ち上げて、そのマニフェストを殴り書きしたものを見せるというスタイルにしたんですが、ボイス的な危うさ──アーティストの提言というものの良さと悪さみたいなもの──も自覚していたんですね。建築や都市計画にはプロがいて、アーティスト=素人がそこに殴り込むというのはイレギュラー。僕のそれ以前の作品もそうですが、「これを実現したい」と思って素直につくるということはまずなくて、むしろ「これをやっちゃいけないよね」ということをあえてやっている。イレギュラーの存在意義とは何かという、かなりややこしいことを常に考えざるをえなかったのです。

「GROUND NO PLAN」展示風景より 撮影=宮島径 © AIDA Makoto Courtesy Mizuma Art Gallery
会田誠 セカンド・フロアリズム宣言草案 2018 撮影=宮島径 © AIDA Makoto Courtesy Mizuma Art Gallery

 展覧会を準備しているときには非常に心が揺れていて、「ここは何かボイスを召喚しなきゃダメだな」と思ってたんですね。それで沢田研二の「カサブランカ・ダンディ」を替え歌にして、「アーティスティック・ダンディー」として発表したんです。

 昔からボイスは一部に「人をたらしこむ詐欺師」と言われてますが、それを戯画的に表現した替え歌です。それを自ら歌うことで、ボイスを始祖とする「社会派アーティスト」みたいなことに片足突っ込んでいる自分をも戯画的に表現した。メイン作品では決してないけれど、隅っこに展示されててクスっと笑えるようなものをどうしても出したくなったんですよね。出さないとなんかバランスが悪い気がして。

会田誠 アーティスティック・ダンディ 2018  撮影=宮島径 © AIDA Makoto Courtesy Mizuma Art Gallery

──2021年のいま、ボイスを見ることの意味を会田さんはどうとらえていますか?

 さきほどSNSのことをお話ししましたが、実際のところそれは半分くらいが地獄みたいな状況になってるじゃないですか──世界的に。もしかしてボイスが夢想していたことも、実現していたら似たような地獄をつくっちゃってたんじゃないかなって思うんですよね。バラ色の未来を描いていた60年代の頃のボイスの言葉がある意味実現して、そうしたら崩壊が始まってしまったという、大いなる歴史の皮肉のようなものを僕は感じます。

 だから50〜60年代あたりからボイスが社会について言っていたことをいまふたたび味わったりすると、より複雑な感じになってむしろ面白いんじゃないかなと思ったりするんです。

 昔はボイスを非常に崇める人たちと、無視する人とパキッと分かれる傾向が強かったと思うんですけれど、僕の最近のボイスへの態度はそのどちらでもない、非常にぐにゃぐにゃした状態です。現在のリレーショナル・アートやソーシャリー・エンゲージド・アートなどの始祖のひとりとして、ボイスの重要性は明らかです。けれどそういった数十年にわたる現代美術の潮流全体に、僕が自己批判も含めて懐疑の目を向けるとき、真っ先に象徴的に被告人席に呼び出されるのも、やはりボイスなのです。始祖であるボイスは大胆であったがゆえに、ツッコミどころも多く、それは現在のアートが抱える根本的な問題を読み解くヒントに満ちていると思うのです。

会田誠

*──2年に1度の間隔で、自由な発想を持ち、都市のあり方に強い興味を持つ国内外のアーティストを5人の推薦選考委員の推薦に基づいて決定。建築系の都市計画とは異なる視点から、都市におけるさまざまな問題を研究・考察し、住んでみたい都市や、理想の都市のあり方を提案・提言してもらうというもの。当時の推薦選考委員は住友文彦、飯田志保子、野村しのぶ、保坂健二朗、藪前知子。