垣間見られる小津安二郎の影響
――2001年の「ヨコハマトリエンナーレ」をはじめ、昨年京都で開催された「アジア回廊」など、建畠さんは様々な機会でヤン・フードンを紹介してきましたね。ヤン・フードンは海外でも「ドクメンタ11」(2002)や、2度の「ヴェネチア・ビエンナーレ」(2003、2007)参加など、中国を代表する映像作家として世界的にも注目されていますが、その魅力とはなんだと思いますか?
建畠 まず、彼との出会いについてお話しします。ちょうど「ヨコハマトリエンナーレ2001」を準備していた頃ですね。上海で彼がグループ展をやっていたんです。ビデオ・インスタレーションを展示していて。それが素晴らしかった。それですぐに連絡を取ったんです。彼がデビュー直後だったから、まだ知名度もまったくなかった。
1990年代後半の中国は、動物や人間の死体を素材に作品をつくる、いわゆる「死体派(デッドボディースクール)」の全盛期で、とても過激だったんです。そんななか、ヤン・フードンはある意味モダンで、「こういう作家がいるのか」と逆に衝撃的だったんですよね。それで、ヨコハマトリエンナーレでは巨大なビデオ・インスタレーションを出品してもらいました。彼が国外で紹介されたのはそれが最初で、それ以降何回も日本に呼んだし、その度に彼は成功していった。
岩渕 ビデオ・インスタレーションという話が出ましたが、ヤン・フードンは何に大きな影響をうけてきたのでしょうか? 彼の作品自体には映画的な性質もありますよね。
建畠 そうですね。彼にはいくつか原点があって、そのうちのひとつが今回の作品《The Coloured Sky:New WomenⅡ(彩色天空:新女性Ⅱ)》のインスピレーション源でもある、1930年代の上海映画です。それにも増して大きいのが、小津安二郎の影響。これはすごく大きいと思います。小津とは共通点も多くて、一番わかりやすいのは固定カメラでの長回しですね。そしてスローな時間の流れや、モノクローム。ただ小津と違うのは、映像のすべてのコマが「絵」になる、つまり絵画的構図を持っているということです。
岩渕 彼はもともと絵画を描いていた、という経歴も関係しているのかもしれませんね。
――岩渕さんはヤン・フードン作品にどのような印象を持っていますか?
岩渕 マルチ・チャンネルの作品が多いので、ストーリーを追うという感じではないですよね。それよりも、同時にいろんな場面を見せながら、鑑賞者が自分で世界をつなげていく、という見せ方をしている、ここが映画監督とは違いますよね。イメージを鑑賞者に委ねている。
建畠 今回の作品は典型的ですね。あれもストーリー性を感じさせながら、映像を分断していろんな角度で見せる。この方法が一番成功したのは、「あいちトリエンナーレ2010」で《Dawn Mist, Seperation Faith》を見せたときですね。旧ボウリング場を会場に、35ミリの映写機を18台並べて9枚スクリーンに投写したのたのですが、圧巻でした。
初のデジタルカラー作品
――現在展示されている《The Coloured Sky:New WomenⅡ(彩色天空:新女性Ⅱ)》は、ヤン・フードンによって初のデジタルカラー映像作品ですが、これはいままでの作品とどう違うと感じますか?
建畠 じつのところ、彼はモノクロ映像の印象が強いから、カラー作品はマイナスの影響が強くなると思っていたんです。ところが、今回の作品のカラーは非常に人工着色的で、それがフェイクのようでもある。ただモノクロをカラーにしただけではないんですね。これは非常に巧みだと思います。色自体を自己目的化してしまうことで、作品の可能性が広がった。
岩渕 しかも、作品では夢のような、夢幻的な風景が広がっていますよね。
建畠 もともとファンタジーの人ではあるが、今回のような映像は初めてですね。これまでの作品はもっと不穏で、どこか暴力的なものを感じさせるものが多かったんです。
――なぜいま、こういった作品が生まれてきたのでしょうか?
建畠 作家はあるタイミングで自分の世界を更新しますよね。そういう節目にきたとき、彼は作品を「延長させる」というよりも「逆転させる」タイプだと思います。
最初、彼は不条理な短編映像を撮っていましたが、そのあとに農民などをテーマにした土着的な方向に転換した。そう思ったら今度は現代中国の若者の内面に迫る「竹林の七賢人」シリーズのように都会的な作品を生み出す。
今回の作品は彼のキャパシティーを広げた結果だと思うし、それが示されている。そういう意味で重要な作品だし、彼にとっては通過点としても必要だったのだと思います。
岩渕 そうなると、この後の展開も気になってきますよね。
建畠 これをつくったことで、なんでもできるようになった。やりやすくなったんじゃないかな。
岩渕 たしかに「ヤン・フードンといえばこれ」というイメージが固まりつつあったし、名作と評価されている「竹林の七賢人」シリーズを超えるのは大変だったと思いますね。だから彼はこの作品で自由を獲得したとも言える。
建畠 この作品は映像作家としてのヤン・フードンを浮かび上がらせている。最初はどちらかというとビデオ・インスタレーションを見せる作家だったと思います。ここまで「映像作家」というイメージではなかった。次第に映像への向き合いかたがはっきりしてきましたよね。
徹底した無目的性と映像の自律
岩渕 建畠さんはヤン・フードンの作品の中にあるイデオロギーについてどうお考えですか?
建畠 それは「虚無主義」だと思います。映像のあり方自体が自己目的的で何も主張しない。映像作品はどうしてもメッセージ性をはらみますが、ここまで徹底して「制作の無目的性」に徹するのは彼くらいじゃないでしょうか。誤解されやすい言い方になりますが、何も言おうとしていない。
「竹林の七賢人」や《愚公山を移す》(編集部注:中国戦国時代の典籍『列子』にある説話で、毛沢東が演説の中で引用した「愚公移山」を映像化した作品)は、ある説話的なストーリーを持ってきて、登場人物の人生観を引き出しながら、しかも気だるさと時間の流れの遅さの中でそれを見せる。これは相当な思想的キャパシティがないと無理だと思います。
みんなメッセージに逃げますよね。メッセージのなさに耐えられなくなる。そのメッセージのなさに耐えて、映像の自律性を主張するのは苦しいことだし、下手をすると何をやっているのかわからなくなりますから。それに悠然と耐えていくのはヤン・フードンの凄いところですね。かと言って、どのような解釈も成就させない。解釈しようとすると、どこからも入っては行けるけど、どこにもたどりつけない......。スケールが大きいですね。
もちろん、ストーリーやメッセージを否定はしませんが、自己目的的な映像という面では、ヤン・フードンに並ぶ者はいないのではないでしょうか。
岩渕 いまの若い人たちにとって、ヤン・フードン作品を見ることの重要性はどこにあると思いますか?
建畠 やはり大陸的なところがあるので、彼の作品はどこか茫洋としていますよね。そういう日本とは異なる時間的感覚に触れるのは重要だと思います。