──今回のエスパス ルイ・ヴィトン東京で展示されている作品《THE COLOURED SKY: NEW WOMEN II》の前のシリーズに、モノクロの《NEW WOMEN Ⅰ》がありますね。それを発展させたのが本作ということですが、第2弾をつくるきっかけはなんだったのでしょうか?
《NEW WOMEN Ⅰ》はモノクロで比較的マクロ、つまり大きな観点での作品でした。だから次の作品では、もう少し心に近づけたものにしたかった。小さいとき、私たちはよく飴の包み紙で遊んでいました。昼下がりというのは太陽がさんさんと照っていますから、小さな女の子たちはいつも太陽に向けて包み紙を透かして見ていたんですね。この時間帯は大人たちが仕事でいないときで、包み紙の向こうに「大きくなったらこうなりたい」とか、いろんな夢のような情景があったと思います。それを撮りたかったんです。
──本作では明るい表情から不穏な表情まで、女性の表情が多彩なのが印象的でした。これはやはり現代の中国における女性の姿が投影されたものなのでしょうか?
今回の作品で、私はとりたてて中国のことを意識したわけではありません。中国だけではなく、いろんな国において一人の人間が成長していく過程は同じです。生まれて成長して、そして社会人となっていく。その成長と同時に、どの国でもその人にまつわる社会環境は変化していくはずですから、普遍的なものだと思います。
──作品では様々な色が映像に使用されていて、フードンさんは「そこに純粋性を投影している」と語っています。そこでは虚実が混合していて、色だけは真実のものとして表象されている、ということなのでしょうか。
これはおそらく正解がない問いですね。色は心理状態の変化ではありますが、「見えざる手」によって常に自分が導かれていく。あるいは自分の考え方まで指し示している。そして自分を導いて、前進していく。
──制作するうえでもその「見えざる手」に導かれる経験はありますか?
ときどきありますね。とくに《竹林の七賢人》(2003-08)がそうでした。これは3世紀の中国における逸話「竹林の七賢」を題材とした、5つのパートからなるモノクロの映像作品ですが、そのときは明らかに「見えない手」があり、私にいろいろ語っていたんです。たとえば「これはあなたにとって絶対にやるべきこと。絶対に達成しなさい」と。《竹林の七賢人》は完成まで約5年ほどかかって、最後は本当に大変でした。けれども、この「見えない手」による「力を振り絞って最後まで完成しなさい」という声を最後まで聴きました。
──フードンさんは、ほしい映像が撮れるまで何時間も待つそうですが、そういったアプローチも「見えない手」に関係するのでしょうか。
撮影していると、とても不思議なことが起きるんです。自分が一生懸命努力したご褒美として神様が与えてくれた、と思えるようなことがたくさんありました。
《The Coloured Sky:New WomenⅡ(彩色天空:新女性Ⅱ)》の中に、馬が川辺で水を飲むシーンがありますね。これは最初、まったく予定していなかったんです。ロケをしていたら偶然馬が水を飲んでいて、撮影できました。外でロケをするとき、それまでずっと雨だったのに、自分が着いた瞬間にぴたっと止んだときもよくありました。縁(えにし)ですね。
──その「偶然性」と関連してお聞きします。フードンさんの作品には明確な脚本がないということですが、出演する女性たちに具体的な指導はなされているんですか?
口頭で指導はします。ただ大雑把で、大きな方向を言うようにしています。「やってもらいたいこと」と「彼女たちが本当にできたこと」のふたつがぴったり一致した場合もありますし、それが理想です。多くの場合、私はできればこういう感じにしてほしい、こういうのをイメージしているんだよ、と彼女たちに伝えます。その私の要求を聞いて、彼女たちが自分なりに考えて演技をします。多くの場合、役者さんははなるべくその要求に近づくように努力してくれます。
例を挙げると、白いスカートをはいた女の子が馬の頭をなでるシーンがありました。これは人間と動物の呼吸の調整がとても難しくて、動物は普通は嫌がるんです。呼吸が合っていないと、なかなか理想のシーンにならないので、30回以上撮り直しました。
──今作のポイントとして「初のデジタルカラー作品」ということが挙げられます。以前、あるインタビューで「モノクロの距離感がとても良い」という表現をなさっていましたが、その距離感とはどのようなものなのでしょうか? 今回のカラー作品では、その距離感に違いは生じましたか?
モノクロの距離感の意味ですね。白か黒かですから、リアルの生活の色を剥がした状態ですよね。抜けた状態、抜いた状態、抜いた色......。映画になった場合、この白黒の映像というのはあたかも人間がガラス・フィルターのように濾過したものを観たような感じで、起きていることを隣で観たような感覚になります。観衆の感覚としては、真実そっくりだけどそこに触ろうとしたら本物がない、というのが白黒の映像です。また、白黒の映像は時間の経過も示しているのです。白黒の映像で私たちは一瞬でたくさんのものを見たような感覚になる。
いっぽうカラーの場合は、どちらかというと人間の心の距離を示しています。内から外に向けた距離です。白黒のほうが物理的な感覚がある。ただ白黒にしてもカラーにしても、私はピュアな境地までたどり着きたい。
──フードンさんの考える「ピュア」とはどういったものなのでしょうか?
なんと言えばいいのでしょう......。なかなか表現しづらい問題ですが、「純粋さとは何か」は、一人ひとり違うのかもしれません。どういう教育を受けてきたのか、どういう生い立ちだったのか、それぞれの成長過程や体験にもとづくものです。あるいはそれぞれの世界観と関係し、そこから抽出した洗練されたもの。なおかつそれぞれの人が自身の生活体験にもとづいた審美的な意識を堅持する状態が私は純粋だと思います。