写真における「決断」と関係性
──「まなざし」ということで言えば、マンボウの写真は、傍観者や覗き見的な視点ではなく、被写体と撮る側の視線がぶつかり合っているような、非常に強い交感の瞬間を感じます。背中を撮っていても、私たちの視線とマンボウの視線が重なり合うように思える。そうした「写真的な瞬間」について、どのようにとらえていますか?

そうですね。僕にとって写真というのは、「決断の連続」なんです。撮影のアプローチにおいて、僕は3つのことをとても大切にしています。それは、プロセス(過程)、関係性、そしてその場の即興性(=現場で起こる発生的な出来事)です。あらかじめ構図を緻密に決めて、そこに合わせて撮る、というスタイルではありません。僕が撮影する相手というのは、必ずなんらかの関係性、交流のある人たちです。
例えば、「この人を撮りたいな」と思っても、しばらく連絡を取っていない場合は、まずその関係性の再構築から始めるんです。写真を撮るという行為は、僕にとってはその人との関係を再確認するプロセスでもあります。
同時に、鑑賞者にとっての「まなざしの空間」もとても大事にしています。僕の意図や解説よりも先に、写真を見た人が「何を見たのか」「何を感じたのか」、そのフィードバックを大切にしたいと思っています。
──マンボウの作品のなかの人物たちは、どんな姿をしていてもどこか気高く、美しい。それはきっと、マンボウのまなざしに、相手への尊敬や賛美、そしてその人の尊厳を残したいという願いが込められているからだと感じます。
今回の展覧会についても、とくに最後に追加された4点の写真や、ファミリーシリーズの作品には、「メモリアル」的な性格が強く感じられますね。

この4点は、その空間を一周して、ヴィデオ作品などを観に行こうとするタイミングで「あとから、ふと気づく」ような配置になっています。私はこれを、東京に来てから追加しました。
そのうち左側の2点に写っている人物は、どちらも僕の親しい友人で、この2〜3年のあいだに亡くなっています。ひとりは、過去の「HOME PLEASURE」シリーズでDMのデザインなどを手がけてくれたグラフィックデザイナー。そしてもうひとりは、パーティーで出会ったトランスジェンダーの仲間です。
今回の展示は、僕にとってはささやかで個人的な弔いの場でもあります。この明るく開かれた空間にそれが共存しているということが、この展示を地に足のついたものにしているのではないかと思っています。
──去年の東京の展示の際には、お父様はまだご健在だったと思います。その後、お父様が亡くなられ、作品の意味はマンボウのなかで変化したのでしょうか。
父については、じつはまだ「弔い」という行為に対する準備が整っていないというのが正直なところです。展示の際も、彼がいまもそばにいるような感覚がありました。父に関しては、もう少し時間をかけて向き合いたいと考えています。ただ、今回の展示を準備するなかで、自分の気持ちを率直に、手紙のように綴ったテキストを書き、同時に刊行した書籍(『MAMBO KEY HOME PLEASURE』、PARCO出版)にも掲載しました。



















