──クィア・コミュニティが国境を越えて人をつなぐ、一種の“メディア”のようになっているという視点はとても興味深いです。アジアにおけるクィア・カルチャーの可能性についても、そうした面と関わりがあると思いますか?
そうですね。僕は、アジアに生きる私たちのクィアという在り方は、やはり「人と人とのつながり」に立脚していると思っています。西洋におけるクィア文化の発展には、それなりの背景や文脈があって、それは実際に西洋の地を訪れたなかで、身をもって感じてきました。

西洋では個人主義が強く根付いていて、クィアであるということも、各個人の感性や好み、自己の自由の表現として強く打ち出されているように思います。僕自身、その自由度の高さに憧れを抱いた時期もありました。
いっぽうで、自分が育ってきた台湾や、中国、日本に戻ったときに感じたのは、そうした個人主義にそのまま立脚することは難しいということです。というのも、アジアにおける私たちのクィアの在り方は、「他者がどう感じているか」をまず自分ごとのように受け取り、そこから自分の表現を模索するというプロセスに基づいているように感じるからです。自己主張を前面に出すというよりは、まずは他者との関係性のなかに自分を位置づけていく。そこには、ある種の「優しさ」があると思うんです。
こうしたクィアの在り方は、ときに西洋的な「ハード・トゥ・ハード」な強さよりも、もっと深く、もっとしなやかな力を持ち得るのではないか。そんな希望を、僕は持っています。
アジアという文脈のなかで、自分自身をどう受け入れていくかという「自己受容」の過程が必要とされるなかで、私たちはつねに進化し続けているし、それと同時に共感してくれるコミュニティもまた一緒に前に進んでいける。そうしたアジアならではのコンテクストのなかで、「クィアとは何か」という問いに向き合い続けることが重要だと思っています。

僕は台湾人として、そしてアジアで初めて同性婚が法的に認められた台湾という環境で育ったことに、ある種の責任と希望を感じています。クィアというテーマには、つねに強い関心と好奇心を抱いていますし、それは人権の問題とも深く関わっている。
だからこそ、クィア表現、芸術性、語り方、文法、叙述の方法といったものを、私たち自身の視点から発明していく必要があると思うんです。そこには、まだまだ私たち自身が切り開ける可能性があると信じています。



















