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対話によって掘り進める新たな彫刻のかたち。Nerholインタビュー

「VOCA展2020」の大賞を受賞した、田中義久と飯田竜太によるアーティスト・デュオ、Nerhol(ネルホル)。3分間連続撮影した肖像写真を200枚重ねたものに彫刻を施す「Misunderstanding Focus」シリーズをはじめ、レイヤーを用いた手法で、時間や存在のゆらぎを様々な媒体で提示してきた。これまでの活動と今後の展望をふたりに聞いた。

聞き手・構成=安原真広 写真=手塚棗

ネルホル、左から飯田竜太、田中義久

──VOCA賞の受賞おめでとうございます。連続写真を重ねたものをカッターナイフなどで彫り込んでいくという手法は、受賞作である《Remove》をはじめ、2011年より続くNerholを代表するシリーズ「Misunderstanding Focus」から続いています。まず、「Misunderstanding Focus」シリーズがどのようにして生まれたのか教えてください。

飯田 僕は彫刻、田中はグラフィックデザインと、それぞれ異なる分野で活動してきました。僕らが2007年に結成したのがNerholです。

 結成当初は、ふたりのあいだで濃密なコミュニケーションをとりながら制作に臨めていると思っていましたが、初めての個展であまり良い反応がもらえませんでした。それ以来、ふたりで納得できるまで、コミュニケーションをとりつつ、様々なテストを繰り返しながら作品をブラッシュアップしてきました。

 次第に、素材に印刷されている内容を作品制作において重視するようになり、連続した映像や、動きのある素材から作品をつくるという考えに至った結果、「Misunderstanding focus」シリーズが生まれました。

田中 飯田は彫刻の分野で、僕は紙のグラフィックデザインで、お互いに活動してきたわけですが、ジャンルを越境した瞬間に、使用する言語がまったく変わってしまうことをつねに感じてきました。僕らはたまたま対話によって互いの言語を共有できたから続けてこられたと思うんです。でも、それは他者にはなかなか伝わらないものですし、それをどうやって他者とも共有していくか、ということを考え続けてきました。「図形にしたらどうなるんだ」とか「写真にしたらどうなるんだ」といった対話を、作品を通して僕ら以外の他者とともに試行錯誤してきたわけです。あるタイミングで、それがうまく重なり合いはじめたきっかけが、2011年の「Misunderstanding focus」シリーズから始まる連続撮影のポートレートを使用した作品です。

Nerhol Misunderstanding focus 001 2011

──「対話」という言葉が出ましたが、ふたりのあいだでは具体的にどのようなやり取りが行われているのでしょうか?

田中 素材、出力するサイズ、彫り方など、作品制作のあらゆることについてはもちろん、時事的な出来事や「あのテレビ番組、どう思った?」といったレベルの雑談まで含めて、必要な対話だと思っています。本当に毎日のように連絡を取り合って決めています。

──今回の受賞作品《Remove》も、連続撮影した肖像写真を重ねたものに彫刻をした「Misunderstanding Focus」シリーズと同様の手法で制作されています。ただ、素材となっているのは端的に「何が映っているのか」ということが認知できない、モノクロームの図像です。これは何についての図像なのでしょうか?

田中 ここ2年くらい、自分たちが撮ったものではなく、過去に撮られた動画を素材に作品をつくるようになりました。《Remove》もそのひとつです。

 ネットに上がってるパブリック・ドメインの動画アーカイブにあったものを素材としています。動画のアーカイブから作品をつくるようになったのは、日本人としてはじめて参加した、韓国のYoungeun Museum of Contemporary Artで行われたレジデンスプログラムがきっかけです。美術館の近くに従軍慰安婦とされている女性たちを保護している施設「ナヌムの家」があり、そこで暮らしている人々の存在や併設された歴史博物館の展示から、さまざまな歴史上の経緯や、国家の主張、人々の個人的な歴史に興味を持ちました。滞在では最終的に「ナヌムの家」の方々のインタビュー動画をお借りし、作品を制作したんです。

 《Remove》の素材となった動画を見つけたとき、僕らも何が映っている動画なのか、詳しくはわかりませんでした。たまたまそのときに自分たちが関心をもっていた人体実験や電気椅子の歴史など、そういった類の動画かもしれないと勝手に思っていたんです。制作にあたって実際に歴史を調べてみると、NASAの宇宙開発事業で行なっていた、重力のテストプログラムの様子を撮影したものだということがわかりました。最初の予想は誤っていましたが、人類が進歩を渇望し、そこに戦争が加わっていった状況、そして多くの人が出来事に巻き込まれていったことなどは共通しています。色々な偶然が重なり合いながら、自分たちのなかで物語が出来ていくというアトラクターがあり、それ自体が作品をつくるうえで意味を持っていると考えています。

Nerhol Remove 2019

──連続写真にしろ動画にしろ、一定の時間を切り取っているという点からも、時間について考えさせられる素材であると思います。その時間性は作品にどのような影響を与えていますか?

田中 動画をはじめとする歴史的なアーカイヴは、自分たちの年齢以上に昔に行われたことを定着させた記録です。僕らの制作においては、それら過去の動画を、単純に過去の時間軸の記録として見せるというよりは、どう現代と接続していくか、というところに意味があるかなと思いますし。飯田が素材を彫るという、現在の時間軸における行為によってその意味が生まれるわけです。

飯田 作品にどのような動きが生まれるのかは、実際に彫ってみないとまったくわからないんです。「こうなった」という、その都度の結果をどのように受け止めていくのかが重要です。はじめに大きさのバランスは決めますが、そのままいくことなんか絶対にない。掘り進めるときに起きた状況にどう対応するか、ということが続いている。それが終わったときに完成するといった感じです。

飯田竜太

──「Misunderstanding focus」シリーズと同様の手法で、オーダーした個人の肖像を彫るコミッションワークも経験していると思いますが、作家の立場からはコミッションワークを通して、どのようなことが見えてくるのでしょう?

飯田 連続した画像を扱うことで、静止画ではわからない人体の本質に気がつくことがあります。座るときに左の骨盤で体重を支える人は左に動くし、足を組む方向も骨盤の歪みなどに影響されるので千差万別ですね。彫刻というのは、そもそも人体の持つコンポジションを求めるという行為だと思います。「彫る」という行為を通して生まれる変化への驚きをもって、構造が見出されてくる。その驚きを受け取りつつ、制作しているなかで「この画像にはこういう彫り方のほうが合っているかもしれない」という解答が得られることもあります。近代の作家がこれまでにやってきた絵のやりとりと同様の試行錯誤を行っているという感覚がありますね。

──Nerholの活動は、グラフィック・デザイナーとしての田中さんのデザインワークにどのように影響していますか?

田中 作家の気持ちがよくわかるデザイナーでありたいと思います。これまでに作品集だけでも100冊以上を手がけてきましたが、作家にどう寄り添いながら、コンセプトを媒介した印刷物として鑑賞者に届けるか、という行為を丁寧にやることが重要だと思っています。作家のスタンスは十人十色なので、いろんな考え方の人がいますが、それぞれの作家と対話をすることも、自分にとっていい経験になっています。自分がNerholとして作品をつくってきた知見が、作家との対話にも生かされていたりします。Nerholとしての活動と個人としての活動は、ふたつでひとつのサイクルという感じですね。

田中義久

──飯田さんもまた、個人のアーティストとしても活動しています。個展「本棚のアーケオプテリス – Archaeopteris in The Bookshelf – 」(2016、ガーディアン・ガーデン)では、木彫によって本棚をテーマとした作品を発表していました。

飯田 Nerholとしての最初期の活動でも扱っていたのですが、僕は「本という存在をどのようにとらえるのか」をずっと考えています。本の中身が重要だと考えていた時もあるし、あるいは表紙のような外側が重要だとも思った時期もあります。そうやって考えをめぐらせるなかで「物に対して人間がどう動いているのかを本を通じて考える」ということに、最近の主題は帰着した気がします。日常のなかにいろんなものがあふれていて、例えばミニマリストみたいに全部排除していく考え方の人もいれば、自分の周りにものをコレクトすることで幸せを感じる人もいる。そういった「もの」に対しての行動をどのように選択するかという考え方を、本を媒介に提案していくのがおもしろいと考え、個展も本棚をテーマに作品を展開しました。木彫で作品を制作したのは、本の原料が木だから、ということが大きいです。

飯田竜太 Forest inThe Bookshelf (本棚の中の森) 2015  「本棚のアーケオプテリス -Archaeopteris inThe Bookshelf-」(2016、ガーディアンガーデン)より

──木は、Nerholの作品でも「multiple – roadside tree」シリーズで扱われています。街路樹を少しづつ切断して年輪が見えるように撮影、その写真を重ねて削り出した作品ですが、同作品も人間の行動を考えることにつながっているのでしょうか?

田中 街路樹は、本当は1本ずつそれぞれがすべて違なっているにも関わらず、一定間隔に同じ樹種が、工業製品のように植えられています。それを見る僕らも、街路樹を個別性のない全体的な存在として認識するという現象が発生しますよね。そこで、伐採された街路樹を僕らが購入し、横に切った写真を重ね、年輪の変化を見せながら掘ることによって、そこに内在する時間や固有性を考えるという試みをやりました。

 僕たちの作品はいずれも「シークエンスのあいだに発生するもの」をかなり意識しています。例えば、ボールを投げるという行為は、あるところまでは感覚的に理解しているけれども、実際に行われる細かい動作はほとんど忘却されます。その動作を、高速度撮影して一枚ずつ見るというアプローチで見てみると、新たな視点が生まれる。一定のシークエンスを、紙で細かくスタックすることによってわかることが結構あって、それは肖像画におていも街路樹においても共通しています。

飯田 日々の、何気なく見過ごしてしまうような瞬間や行為を、できるだけ敏感に見つめていたいという思いはいつもあります。僕らの作品は、一般的にいう画質が重要な作品ではないので、自分たちがスマートフォンで気になった物を撮ったり、たまたまネットで素材に出会うこともあるし、そういった連鎖の繰り返しのひとつだったりもします。題材よりも、どうやってそこにアプローチしたかが重要です。

Nerhol multiple - roadside tree 004 2016 240×300cm

──Nerholの作品は、写真や動画といった平面的なメディアを素材としながらも、それを重ねることで立体化します。飯田さんが先ほども言われていた「彫刻」という言葉の意味や歴史とも関連すると思いますが、立体として見られることどのような意味を持つのか、教えていただければと思います。

田中 現代の多くのメディアのことを考えると、立体として最終的に定着させる機会というのが、どんどん減ってきているのかもしれませんね。例えば、世界中の芸術祭で出される作品のうち、映像の比率はどれだけ多くなっているのかという話にもつながるかもしれません。そもそも、作品が立体である必要性とはなにか、平面である必要性とはなにかを問うことになると思います。例えば、情報を早く伝えるという意味では、立体は映像には全然かなわないし、それはもう受け止めるべきだと思います。その前提のもとで立体をつくるからには、ウェブに象徴される流動的な状態では成立し得ないものを創造しない限り、立体としての価値を見出すことは難しくなるのではないでしょうか。

飯田 そう考えると、やはり彫刻というメディアについて検証せざるを得なくなります。僕は彫刻という方法について「五感以外で感じる」「内臓で感じる」といった、体感にも似た感覚での受容を大事にしたいなと思います。同種の体感は、AR(拡張現実)のような表現媒体でも感じられるかもしれませんし、そもそも近代的な立体作品をやめて、現代の新しい媒体で作品をつくろうとしている人も多いです。だけど僕は、人間が身体を放棄しない限り、本当の意味でそれを体感できる世界は訪れないと思っているんですよ。僕らは身体を持ち得たうえで、アイデンティティを創出しているし、僕らがそもそも立体なんです。だから、身体と知覚が簡単に切り分けられるものではないという気がしています。

 例えば、寝ているときは自分じゃなくて、起きているときだけが自分って、おかしいと思うんです。意識して何かを知覚しているときじゃなくても、無意識のうちに感じているものや、錯綜しているもの、そういった言葉にしづらいものを、もっと信じていいんじゃないですかね。オカルトみたいな話になっちゃうんですけど。

田中 60年代以降にパフォーマンス・アートが盛りあがり、それが映像だったり、紙だったりに落とし込んで記録されたことで、僕らはその存在を知ることができる。でも、実際の空間で起きていた出来事を、現代の視点からすべて補完することは不可能ですよね。その時代から、手を変え品を変え、アーカイブが試みられてきたわけです。例えば、実際にそのときに行われていたものを、すべてアーカイブして、本物そっくりにつくり直したり。でも、その結果起きてきたものはどこか虚無的で。京都で行われていたものを、東京でやったところで、その空間性は補完できないですよね。

 本当に大事なことは、現代にそれを召喚する際、過去の出来事を埋めようとする作業によって感じ取れる、どうやっても埋まらない余白や老化現象のようなものではないでしょうか。その余白に何を感じるのかということが、もっとも重要だと思っています。そこを含めてどんなメディアで作品をつくるのか、いまの時代の作家たちがつねに考えていくべきことじゃないかと思います。

飯田 作品って本当は場所ありきだと思います。同じ作品でも、ホワイトキューブだと白色の照り返しで違うように見えたり、美術館の高い壁にかければ小さく見えるとか、いろんな感覚がある。そういった見え方についても同時に並行して考えなきゃいけない。だからこそ、人間はある種の所有性というか、自分のヒューマンスケールのなかで扱える物をものすごく数多くつくってきたわけです。田中が練って、僕が掘ることで制作する彫刻も、そういった大きな尺度のなかのひとつだと思います。

編集部

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