テクノロジーによって探究する自己の内面と外面の「交じらい」
オランダ生まれのアーティスト、ヴィンセント・ライタスの個展「BREATHING IN/EX-TERIOR」が駒込倉庫で開催された。ライタスは現在、東京藝術大学大学院博士課程に在籍しており、本展の監修には同大学院で教鞭を執る長谷川祐子が、キュレーターには同科の院生2人が参加している。本展が日本では初めての個展となる。
展覧会の紹介文によると、ライタスは「美学としてのインティマシー(親密性)」というテーゼのもと、感情に代表される人間の「内面(interior)」を、主にインスタレーションという手法で「外面(exterior)」へとアウトプットしているという。「BREATHING IN/EX-TERIOR」という展覧会タイトルからは、内面と外面の行き来を「呼吸(Breathing)」という運動に置き換えていることがわかる。
それでは、実際にその作品はどのようなものだったのか。会場を訪れてみると、展覧会タイトルと同名の作品《Breathing in/exterior》(2019)がまず目に飛び込んできた。通路のように細長いギャラリー空間の両脇には大きな布がたゆたっている。壁に設置されたスピーカーからは作家とそのパートナーの呼吸音が響き、それに同期するかたちで送風機が駆動することで、まるで呼吸するように2枚の布が膨らんだり萎んだりを繰り返している。
展覧会の体験は、これらの布に挟まれた空間を通り抜けることから始まる。そこには、人ひとりが歩けるくらいの狭いスペースが穿たれており、両肩に擦れたり離れたりする布の感触が伝わってくる。筆者がそこを訪れた際にはライタス本人が出迎え、この「通路」の先で自作について語ってくれた。
「僕はもともと、表現主義とメディア・アートに取り組んでいました。メディア・アートの場合、メディアが作品の中心になりますが、僕にはそれが面白くなくて、メディアよりも内容を追究したいと思っていたんですね。ここで言う内容とは、例えば人との関係性や愛や悲しみなど、intimacyと呼ばれる親密でロマンチックな感情のことを指しています。最近のアートを見ていると、社会的・政治的なテーマを扱ったものがたくさんありますが、僕が興味を持っているのはアートにしか扱えない領域、つまり内面を探究することです。アートに対するプレッシャー、とりわけテクノロジーが人間の内面に介入している時代だからこそ、人の感情を探究していく必要があると考えています。そのため、人の内面とエンジニアリングを組み合わせてintimacyを表現してみようと思いました」。
確かに、《Breathing in/exterior》はシンプルな外観であるものの、よく見ると呼吸音や送風のリズム、そして照明の明滅が観客の動きに連動して複雑に動いている。それに加えて、間近で誰かの呼吸を聞いているような私的な印象も両立している。
さらに《Breathing in/ex-terior》の奥に配置された《Dynamics of Mass Connectivity》(2019)もまた、そうした2つの要素を両立させた作品である。1本のポールを取り囲むように3つのモニターが設置され、それぞれの画面にはライタスが家族や友人らと行ったヴィデオ通話が映し出されている。遠くから眺めている際には個々人の顔や会話が認識できるが、作品に近づくとポールが高速で回転し始め、モニターに映る人々の顔が混ざり合い、「誰でもない顔」へと変容してしまう。ライタスの交友関係を反映して、通話の相手はオランダ語、英語、日本語などを話しているが、それらの声もモニターの回転とともにポリフォニーとなり、個々人の言葉はまったく聞き取れなくなる。
これは、家族や友人との親密なコミュニケーションでさえ、テクノロジーの加速によって異様な何かへ変容してしまうさまを表しているのだろうか。もし本作が、そのように情報化社会へのたんなる「警句」であるとするならば、それは倫理的な現代芸術のつまらない焼き直しであるにすぎないだろう。だがそれ以上に印象的だったのは、この回転する運動の激しさ、そしてポリフォニーとなった声の得も言われぬ不気味さだった。
その運動はあまりに速く、近づきすぎてしまうとモニターもろとも鑑賞者の身体が傷ついてしまいそうな勢いで回転している。遠目に見ているぶんには親密で優しい声が、ひとたび回転が始まることによって機械音と混ざり合い、声とも音ともつかない不穏な何かへと変換されてしまう。この声/音の主体は誰なのか?
そのように考えたとき、本作はいわゆる「倫理的な現代芸術」とは異なる、さしあたり「表現」と呼ぶにとどめておくべき何かであるように思われた。
メディア・アートと「表現主義」
それでは、この名状しがたい「表現」はどこに由来しているのか。それを探るために、まずは彼のプロフィールを確認してみよう。
1988年にオランダで生まれたライタスは、祖父、父、母、姉ともに建築家という家庭環境で育った。母が中国にルーツを持つアジア系であることから、幼少期より頻繁にアジアを訪れる機会があったという。学生時代にはユトレヒト美術大学と多摩美術大学で「メディア・アート」に相当する領域を専攻していたが、10代の頃から継続する欲望はあくまでも絵を描くことにあった。
「僕はもともと、心を落ち着かせるために制作するようなところがあります。例えば高校時代に勉強が忙しくて絵が描けなかったときに心を病んでしまったことがありました。だから絵はいつも激しくて表現主義的でした。その頃はストリート・アートや落書きもたくさん描いていましたね。ユトレヒトで美大に入ったのもただの偶然で、たまたまスケジュールが合って足を運んだところがユトレヒト美術大学のデジタル文化デザイン専攻だったんです。子供の頃から父親のパソコンでペイントツールやPhotoshopをいじっていてなじみはあったので、デジタル技術を使えばもっと面白い絵が描けると思って入学しました」。
会場内を改めて見渡すと、先ほどふれた「メディア・アート調」のインスタレーションの陰にノートブックが雑多に置かれたコーナーがあった。それら全体は《Breathing Paper》(2019)と名付けられており、2015年以降に描かれたメモやドローイングがぎっしりと収められている。ページをめくっていると、あるノートにひとりの女性の名前が繰り返し記されていることに気がついた。聞くと、その当時好きだった女性の名前だという。さらに別の一角には、ライタスの家に置き去りにされたかつての恋人のストッキングや歯ブラシなどが、ドローイングや写真とともに洗濯物を干すように吊るされていた。
先ほどまでの洗練された印象から一転し、自身の言う「表現主義的」な部分が垣間見えてくる一角である。
「《Breathing Paper》は自分のために描いているので、僕には面白いかどうか判断できなかったんですが、キュレーターの黒沢聖覇くんが推してくれて出すことになりました。もともと絵は好きで描いていたんですが、いわゆる表現主義はもう十分にやられているので、それに取り組んでも芸術全体にとってはあまり意味がない。だから最初はメディア・アートを学ぼうと思って多摩美術大学に入りました。ですが、今度はテクノロジーだけを扱っているとだんだん悲しくなってきて……。それでもう一度、人間の感情も取り入れた作品をつくることにしました」。
「空間」への欲望
こうした二面性は、例えばモニターが高速で回転する《Dynamics of Mass Connectivity》において「コードは嫌い」と語り、観客から配線やシステムが見えないように苦心したと話すいっぽうで、《Breathing Paper》では、自身の内面の「散らかったさま」を反映するために、作品がまとまりすぎないようワイヤーをあえて露出させたと語る場面などに象徴されていた。作品の見せ方へのこの真逆の志向は決して矛盾ではなく、作家が自身の「総体」を見せることを望んだ結果、必然的にそうなったものであるのだろう。それと関連して、ライタスは今後の展望とともに次のように語っていた。
「これからの理想としては、日本を含むアジアとヨーロッパの両方で活動したいと思っています。オランダだけでは不十分で、オランダ人の友達と過ごしていると楽しいけれど、時々日本人の柔らかさにもふれたくなります。それと同じように、アーティスト活動のなかでもそういうバランスを調整したいと考えています。アーティストとして自己表現もしますが、人とコラボレーションすることがきなので、オランダ時代にはアートディレクターもしていました。最近ではアートフェア東京の展示デザインやキュレーションのサポートもしました。ただ作品を展示して終わりではなく、もっと大きなプロジェクトにも関わっていきたいですね」。
そうした意識は、言い換えれば「空間的」なものでもあるかもしれない。
「人は誰しも空間のなかに存在しているので、そのなかで何かにふれることにリアリティが伴います。(頬に物を押し当てながら)こうすると「硬い」「痛い」みたいに感情が影響を受けるし、それと同じように、人の意識と物の距離感が近いインスタレーションでは感動もしやすくなる。だからただたんにビジュアルをつくるだけでは面白くなくて、それが現実のなかで存在しているものになるよう、その体験をつくっていきたいと思っています」。
そう考えるようになった理由は?という問いに対しては、次のように答えた。
「建築家の両親からの影響があります。昔から両親と旅行をすると、父があらゆる建物の説明をしてくれるんです。このビルはこうできている、このお寺の歴史はこうだ、みたいに。そういう経験から、僕も駒込倉庫を見て『垂木が印象的な空間だな』と思ったことからここが好きになり、この空間とコラボレーションしなくてはと思うようになりました。それで3Dモデルをつくって、1センチメートル単位で展示のシミュレーションをして、それと同時に輸送や設営のことも完璧に設計しました。そういうロジカルな作業をしながら、人がたくさん関わってくれた展示だったので、マネジメントにも目を向けようとする。そうしたらキュレーターの黒沢くんから『ヴィンセントがキュレーターみたいだね』と言われるようになったんですが(笑)、そういう意味でも僕はこの空間全体をとらえたいと思っています」。
こうした語りは、アーティストとしては「正直」過ぎるように聞こえるかもしれない。しかし、おそらくこれがライタスという
(『美術手帖』2019年8月号「ARTIST PICK UP」より)