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2019.7.18

ローカルでありながら国際的に飛散する種(アート)。鄭波インタビュー

中国におけるソーシャリー・エンゲージド・アートの担い手で、周縁化された集団や植物への関心と、過去の事物の調査とを結びつけてきた鄭波(ジェン・ボー)。今回、京都での滞在調査をもとに日本初個展を開催した作家に、作品や制作に対する考えについて聞いた。

文=佐藤知久(京都市立芸術大学芸術資源研究センター教授)

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAにて 撮影=来田猛
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周縁化された人びとと生物を結びつけ国際的なネットワークをつくる

 鄭波(ジェン・ボー)は1974年に北京で生まれ、現在は香港に住むアーティスト、研究者、大学教員である。「マニフェスタ12」(パレルモ)、「コスモポリス#1.5」(成都)「第11回台北ビエンナーレ」(すべて2018)など各地の国際展で作品を発表しながら、香港城市大学クリエイティブ・メディア学部で教鞭をとる。そして「アーティスト」より「アート・メイカー」という肩書きを好む。

 クィア・カルチャーや移民労働者など、社会的に周縁化されたコミュニティに関する作品を発表し、現代中国のソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA)について研究(*1)する鄭の活動は、まずはその文脈に位置づけることができる。

 1979年の「星星画会」に始まる中国のSEAは、急激な革命よりも緩やかな社会変化を求め、社会的であると同時にエステティックな要素を重視してきたと鄭は語る。「これはたんに私の個性なのかもしれませんが、中国でなんらかの実践を継続し続けるときには、私たちはつねにハードな境界線がどこに位置しているかを感じとろうとしています。私たちは、ソフトな境界線の外には出て行きますが、ハードな境界線の外に行こうとはしないのです。長年にわたって水の雫が滴り落ちることによって岩が割れるように、時間をかけてハードな境界線が越えられることもあるのですから」。

 「必要なのは定義ではなく、開かれた記述だ」と彼は言う。多様な実践方法を歴史に学び、それらの意義をアーカイヴしつつ学生や社会に提示しはするが、自分の作品制作において重視するのはあくまで「偶然の出会い」や「直観」なのだ、とも。研究者とアーティスト──アーカイヴと実践──という2つの側面は彼のなかで、不可分な、それでいていっぽうが他方を決定しない関係にあるようだ。

尖沙咀(香港)での《Sing for Her》(2015)展示風景

社会主義と平等の感覚

 「自分は体験的に社会主義を知る最後の世代」だと鄭は言う。北京郊外で数学と物理を教える両親のもとに生まれ、社会主義体制下で育った彼は、1993年にアメリカでも有数の大学、アマースト大学に留学する。コンピュータ・サイエンスとアートを学び、卒業後はビジネス・コンサルティング会社に就職。グローバル資本主義を相手に世界中を飛び回るエリートとして4年間働いた。ここまでの半生は、現代中国の躍進をそのまま象徴するといっていい。

 だが「最後の社会主義世代」としての彼の感覚は、「金持ちをより金持ちにする」仕事にはなじまなかった。「1992年以後、改革開放は加速して、市場改革が日常生活のなかに浸透してきました。でも振り返ってみると、自分は92年以前の、貧しかったけれども強い平等の感覚があった時代の情動によって形成されている部分が大きい思います。社会主義者的な情感や平等の感覚に、より近しさを感じるんです」。

 仕事を辞め、大学院に入り直した彼が実践したのが、さまざまなマイノリティに関わるSEAだ。たとえば《Sing for Her》(2015)。香港芸術館の委嘱で制作されたこの作品は、この地で働くフィリピン人やインドネシア人の移民労働者たちのコミュニティと一緒につくった作品である。彼女ら・彼らが好む歌をリサーチし、その歌のカラオケ装置を巨大なメガホンに据えつけ、香港有数の高級ホテル(そこは移民労働者が働く職場でもある)が面する広場に設置する。それは周縁化されたコミュニティの存在を、聞こえる声に変えた。

 「しかしいま考えれば、その巨大さと公共性──6ヶ月間展示され、少なくとも50万人は見た──にもかかわらず、この作品は人々に対して、十分にアフェクティブ(情動を動かす・効果的)なものだったとは思わない」と彼は言う。「その理由のひとつは、この作品がコミュニティを巻き込んだ作品ではあったけれども、コミュニティに埋め込まれた作品ではなかったからです。作品とコミュニティが分離し、コミュニティの動きの一部ではなかった」。

 もうひとつの理由は、アイデンティティの政治である。「過去数十年間にわたって、西欧における平等性の追求は、ジェンダー、セクシュアリティ、人種的アイデンティティなどを軸に行われてきました。香港でこの作品をフィリピン人労働者たちとつくっているときにも、私は一種の人種的なアイデンティティについて考えていたのです。最近では中国でも、平等といえば経済的な問題よりも、アイデンティティの問題になってきています。しかし近年では多くの人々が、経済的な平等を考えることなしに平等な社会を実現することなどできるだろうか、という疑問を提示しています」。

 そしてこの作品と前後する時期から、彼は人間のなかの問題だけでなく、人間以外の生物の問題、雑草や生態学の世界に関わる実践にシフトしていくのである。

《Pteridophilia 4》( 2019)の展示風景 撮影=来田猛 写真提供=京都市立芸術大学

SEA+EEAへ

 「私が雑草を用いた仕事を始めたのは2013年です。人新世(Anthropocene)という言葉に出合ったのはもう少し後だと思います。大学教育をアメリカで受けた仲間たちの多くは、中国における民主主義の問題にとても大きな注意を払ってきました。でも10年に中国に戻ってみると、すぐに私は、次の数十年間にわれわれが苦しむのは民主主義の問題よりもずっと、生態学的問題であるということを理解したんです。もちろんそれらはリンクしていますが、現在の危機は民主主義的危機としてよりも、環境危機として広がっています。私がSEAから生態学的な実践に関心をシフトさせたのは、日々の生活のなかで、生態学的問題が民主的な問題よりずっと深刻だと認識したからです」。

 放置されたセメント工場跡地に生えた雑草の植物園を「発見」する《Plants Living in Shanghai》(2013)。地面に植えた雑草で政治的スローガンを描き、そのまま放置する《Socialism Good》(2016)。同様の方法でつくられ「Weare the 99%」への批評的リアクションとしても読める《YOU ARE THE 0.01%》(2019)(この数字は、地球上の全生物のバイオマスに占める人類の割合だという)。周恩来と鄧小平が1920年代にパリに留学していた事実をもとに、若き共産主義者と植物の関わりをインターナショナリズムの観点から考える《AChinese Communist Garden in Paris》(2016~)など、鄭が「エコロジカリー・エンゲージド・アート」(EEA)と呼ぶアートの実践方法は多彩である。

 なかでもユニークなのは、今回の日本初個展「Dao is in Weeds(道在稊稗/ タオは雑草に在り)」で新作が追加された「Pteridophilia」シリーズ(2016~)だろう。「クィアな植物とクィアな人びととをつなげ、生態学的・クィア的な潜在性を探求する」この映像作品(Pteridophiliaは「シダ性愛」を意味する)では、台湾の森深くに自生するシダ植物たちと、若き男性たちとのセクシュアルな交流が、直接的かつ丁寧に描かれる。この作品において、彼は文字通り、植物と人間、SEAとEEAをつなげようとしているのだ。

《Fern as Method》(2019)の展示風景 撮影=来田猛 写真提供=京都市立芸術大学

未来へのマニフェスト

 今回の個展で発表されたもうひとつの新作《EcoFuturesSuujin》(2019)は、京都駅の東に位置する崇仁地域の歴史、自然、現在そこで行われている活動にかかわる作品である。この作品において鄭は、周縁化されたコミュニティに関するSEA的実践と、周縁化された雑草に関する生態学的なアート実践という2つの流れを、さらに密接に結びつけようとしている。「少なくとも私にとって崇仁地域は、世界的にもほかに例を見ないような都市的状況にあります。私はこれまで、あれほどの規模の、きわめて便利な場所にあり、それでいて多くの空き地を伴うような場所、街を訪れたことはありません。これは、人新世的な都市計画ではなく、オルタナティブな未来について考えるための、絶好の状況だと思うのです」。

《EcoFuturesSuujin》(2019)の展示風景 撮影=来田猛 写真提供=京都市立芸術大学

 崇仁地域はあらゆる人間の平等を求めた社会運動の歴史を持ち、日本最初の人権宣言である「水平社宣言」(1922)にも関わりが深い。だが現在は住宅地区改良事業を経て空き地が広がり、人口減少と高齢化が進んでいる。新たな未来を探るなかで、京都市立芸術大学の崇仁地域への移転が決定。2023年の移転に向け、これからの崇仁について考える地元住民、アクティビスト、アーティスト、大学・行政関係者らの活動が続いている。

 複雑で、重要で、魅力的な崇仁地域。そこでアーティストに何ができるのか、という声もあるだろう。「国際的なアートプロジェクトに、アーティストたちが落下傘のように降下して、何か新しいものを、新しい状況のなか短時間でつくり出さないといけないということに問題があることは承知しています。けれど、私はこうしたモデルに抵抗したことはありませんし、同時に、完全にローカルになろうと決意したこともありません。でも同時に私は、つぎのように考えるようにもなったのです。『どのようにすれば、このような種類の状況、外から訪問してきたアート・メイカーという状況において、私は本当に役に立つことができるのだろうか?』と」。

 今回鄭は、4週間にわたる京都滞在のなかで、2つの活動を行った。ひとつが、これからの崇仁の未来に関わるステークホルダーたちに集まってもらってワークショップを行い、1922年の「水平社宣言」を未来に向けてバージョンアップすることだ。「すでにここには、さまざまな活動のモメンタム(勢い、はずみ)がありました。私にとってアートの実践は、モメンタムを集合的なやり方で起こすことに関するものです。アジテーターであるよりも、ファシリテーターの役割を担うこと。今回の展示のように、小さな部分から構成されていながらも、ある動きをつくり出すもの、ローカルな流れの一部になるような何かをつくることなのです」。

 もうひとつの活動が、崇仁の状況を国際的に伝える冊子「Suujin Visual Reader」の作成である。それは、世界各地に点在する、周縁化された人々、周縁化された生物、似たような考え方を持つ人たちの「飛び地」を結ぶ、国際的なネットワークをつくることなのだと鄭は言う。「それはローカルな思考を別の場所に運ぶことなのです。ここに住んでいる人たちだけでなく、たとえば台湾のコミュニティ・プロジェクトに関わる人たちも、そこから何かを学ぶことができます」。

 こうして作品は、コミュニティに埋め込まれ、そこでの次の活動のひとつの起点になりながら、同時に──国境を越える雑草のように──インターナショナルに伝播するものとなる。社会/コミュニティに、生態学/雑草に関わりながらつくられた作品は、ローカルでありながらインターナショナルに飛散する種となるのだ。

 鄭は新しい「宣言」を、こう締めくくっている。

 「鴨川に隣接する自然環境を有する崇仁は、平等への闘いの歴史、人口減少に直面するという好機、来たる芸術との融合といった特性から、エコロジカルな活力に満ちた、地球上における理想の地域となる可能性を秘めている。芸術的創造性は、地球上にある万物の権利である。人類だけでなく、崇仁に生息するあらゆる者(物)の創造性も支援されるべきである。志を同じくする人々で国際的な同盟を結成する」。

《EcoFuturesSuujin》(2019)の展示風景。今回の滞在調査でワー
クショップを行い、1922年の「水平社宣言」をアップデートした 撮影=来田猛 写真提供=京都市立芸術大学


*1――研究者としての鄭の活動は、ダグラス・クリンプのもとで執筆した博士論文「公共性の追求:中国の4つの現代美術プロジェクトのための研究」(Zheng, B., The pursuit of publicness: a study of four Chinese contemporary art projects, 2012 http://hdl.handle.net/1802/25139)のほか、彼自身が作成したデジタル・アーカイヴなどにまとめられている。

『美術手帖』2019年8月号「ARTIST PICK UP」より)