リゾームには始まりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲intermezzo なのだ。[…]どこへ行くのか、どこから出発するのか、結局のところ何が言いたいのか、といった問いは無用である。[…]中間で、中間から出発して、入ったり出たりするのであって、始めることも終えることもない(*1)。─ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー―― 資本主義と分裂症』
ラシード・ジョンソンは、1977年にアメリカのイリノイ州で生まれた。彼の母親(Cheryl Johnson-Odim)はアフリカ史を専門とする著名な歴史家で、1990年代まで南アフリカで実施されていた人種差別的アパルトヘイト政策に反対した活動家としても知られる。こうした背景は──もちろん、そのすべてを作家や作品の解釈に還元することはできないが──ジョンソンの芸術実践を考察するうえで欠かせない要素である。
ジョンソンが頭角を現したきっかけのひとつが、アフリカ系アメリカ人アーティストの紹介を重要なミッションとして活動するニューヨークのハーレム・スタジオ美術館で2001年に開催された「フリースタイル・エキシビション」展であった。この展覧会でキュレーターを務めたクリスティーン・キムは、「ポスト・ブラック」をスローガンに掲げ、自らのルーツやアイデンティティを制作や活動の重要な一部としながらも、一枚岩的でステレオタイプ的な「ブラックネス(黒人性)」概念を多様化・複雑化していくことを志向する黒人アーティストたちの作品に光を投じた。この「ポスト・ブラック」という軸は、ジョンソンの《Plateaus》を読み解くうえでも有益な示唆を与える。
「フリースタイル・エキシビション」展では写真作品を出展したジョンソンだが、彼は平面、立体、映像、パフォーマンスを含むメディアを横断した実践を特徴とする。加えて、ジョンソンは成長の過程で歴史家の母や、文学や思想を彼に指南した継父からの影響を受け、哲学や政治学などジャンルを越境した知見を作品に織り込む。本展の主役である《Plateaus》も、いちおうは「インスタレーション」と定義できるが、そうしたジョンソンの横断的・越境的な性質を反映したメディア横断的な作品である。
ポートレイト的作品
5メートル近くの高さに達する本作は、立方体を組み合わせた黒いグリッド状の構造物の中に、植物や陶器、本や無線ラジオ、ラグマットやシアバターの塊などの多種多様なオブジェクトが無作為に置かれている(そのなかには、縮小サイズのグリッド状の構造物も含まれる)。一見すると無関係に見えるこれらのオブジェクトだが、いずれもジョンソンの個人史や家族史と深く関わる。
例えば、無線ラジオはジョンソンに多大な影響を与えた先述の継父が趣味として保有していたものであり、本はアフリカの黒人作家リチャード・ライトが書いた『アメリカの息子( Native Son)』(1940)である(アメリカ社会の人種差別構造を描いたこの小説を、ジョンソンは2019年に監督として映画化している)。アフリカを主な原産地とするシアバターはいまやアメリカの路上で頻繁に販売され、トランスナショナルな異種混交的文化を象徴する。《Plateaus》でジョンソンがとくに強調する異種混交性は、グリッドの中に召喚された、決して同じ生育環境では育つことのない(故に、通常は邂逅することのない)植物群にも示唆される。
ジョンソン本人も、会場に設置されたインタビュー映像で、《Plateaus》は自らのポートレイトのようなものだと語っている。だが、その「ポートレイト」において表現されているのは、慣習的に理解されてきたような固定的で不変の「アイデンティティ」ではなく、流動的でつねに変化することをやめないアイデンティティのかたちである。
「リゾーム」という概念
《Plateaus》という作品タイトルは、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著『千のプラトー』(1980)に由来する。この著作は、フレンチ・フィロソフィーの旗手・ドゥルーズと活動家でもあった精神分析家・ガタリが類まれな協働作業──「われわれは[…]二人で書いた。二人それぞれが数人だったのだから、それだけでもう多数になっていた(*2)」──を通じて生み落とし、多くの芸術家からインスピレーションを受けて書かれるとともに、多くの芸術家にインスピレーションを授けてきた。
精神分析、記号論、音楽、言語学、トポロジーといった複合的領域で多種多様な話題を縦横無尽に展開する『千のプラトー』は要約を拒む書物だが、その核をなす主要概念のひとつが「リゾーム」である。冒頭に掲げたエピグラフは、「地下茎」を意味するリゾームを定義した有名な箇所だ。「リゾームには始まりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲 intermezzo なのだ」。また、同書には次のような一節もある。「リゾームのどんな一点も他のどんな一点とでも接合されうるし、接合されるべきものである(*3)」。
絶対的中心を持たず、つねに流動的に拡散していく何かとして、自身のアイデンティティを表現するインスタレーションであるジョンソンの《Plateaus》は、まさにドゥルーズ+ガタリの「リゾーム」概念と共鳴する。また、脱中心的なネットワークを構成している本作は、鑑賞者を含む無数の他者の歴史や記憶と思わぬ地点で、思わぬ仕方でつながり、際限なく増殖する構造を有しており、その点でもリゾームを体現する。
私という大きな書物
ドゥルーズ+ガタリは、「書物」もまたひとつのリゾームを形成していると言う。「本は、根強く信じられているように、世界のイマージュなのではない。本は世界とともにリゾームになる。本と世界との非平行的進化というものがあるのだ(*4)」。そのような観点から眺めると、《Plateaus》はジョンソン自身の開かれた自叙伝であると見なすこともできる。
よく知られる通り、哲学者のルネ・デカルトは『方法序説』(1637)で「世界という大きな書物」という有名な言葉を残し、生涯をそのなかで発見しうる学問の探求に費やすことを宣言した(*5)。世界と同様、それが誰のものであっても、「私」というアイデンティティもまた、永遠に汲み尽くしえない底知れなさをたたえている。
ラシード・ジョンソンによるインスタレーション作品《Plateaus》は、とくに彼のルーツに関連づけて言えば「ブラックネス」という概念をめぐって、無限の深みと広がりを持つアイデンティティ―「私という大きな書物」―を非中心的なリゾーム構造として表現することで、その新しい形式を実験的に模索している。リゾーム、あるいは自叙伝としてのインスタレーションととらえることのできる《Plateaus》は、まだ見ぬ誰かの自叙伝と予測不可能な仕方で接続しながら、それ自体も持続的に変化し続けている。
*1──ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー──資本主義と分裂症』宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出文庫、2010年、60頁。
*2──同上、15頁。
*3──同上、23頁。
*4──同上、31頁。
*5──デカルト『方法序説』谷川多佳子訳、岩波文庫、1997年、17頁。