福原信三とは何者だったのか?
伊藤賢一朗 資生堂初代社長の福原信三は、宣伝物やデザインにとても注力した人物として知られています。同時に大正から昭和にかけ、写真家としても活動していました。本展「それを超えて美に参与する 福原信三の美学 Shinzo Fukuhara / ASSEMBLE, THE EUGENE Studio」では、福原が経営と芸術の領域を行ったり来たりしながら、組織的に人々の生活を「美」によってより良くしていくーー今日でいえば社会創造的なーー活動に従事していたという点を切口にしています。福原は、この銀座で人が集まる場=サロンを重視し、人が集まり出会い、価値が循環することに取り組んでいました。
今回のトークでは、これからの社会において、人が集まり、つながる場所の可能性について、福原の活動を紐解きながらお話しできればと思います。
武田砂鉄 私は本展のために『福原信三の美』というブックレットを書いたのですが、これを書くにあたって静岡・掛川にある資生堂企業資料館(*1)に行きました。そこでは普段公開されていない資料室にも入ったのですが、とにかく資料の管理が徹底されていた。資生堂からは『資生堂ギャラリー75年史』という分厚い書籍が出ていますが、記録し続けることによって資生堂のブランドイメージを保とうとしている。資生堂はそういう「記録する」「保管する」「データとして公開する」という姿勢が徹底していますよね。
ナカムラ 今回、この『資生堂ギャラリー75年史』を読んで、資生堂ギャラリーがいかに「サロン」として機能していたかがわかりました。なぜかというと、ここはありとあらゆるジャンルの画家たちの展覧会をやってるんですよね。銀座に住んでいた洋画家・梅原龍三郎(1888〜1986)や、二科会を結成した洋画家・石井柏亭(1882〜1958)といった重要人物を抑えてる。初期はこういった人たちの展覧会を頻繁にやってるんですね。
武田 福原信三から広がっていた人脈が見えてくるということですね。
ナカムラ そうです。この本で一番面白いのは、1919年に小村雪岱がデザインした資生堂の広告ですね。ここ数年、小村雪岱は大きな注目を集めていて、今年も川越市立美術館で大きな展覧会がありました。小村は絵描きでもあり、装丁家でもあったんですね。いわば日本におけるデザイナーの草分け的な存在です。資生堂ギャラリーが完成しときの広告も小村雪岱が手がけていた。当時の最先端を取り入れていたことは興味深いですよね。
伊藤 当時の香水瓶にも小村雪岱が手がけたものがいくつかあるんですが、それらには日本の伝統的な家紋のモチーフを取り入れつつモダンに仕上げたレーベルが焼き付けられていたりします。
サロンとしての資生堂ギャラリーの誕生
武田 今回、『福原信三の美』を書くにあたり、様々な資料を読んだのですが、福原信三を一言で言うと「なんでもやっていた人」。写真家でもあったし、資生堂ギャラリーのようなサロンもつくったし、母子向けの雑誌をつくったりした。本来であれば「偉い人」は動きが鈍くなるのがどんな企業でも常ですよね。でもそうじゃない。追えば追うほど、いろんなことをやっていたことがわかる。
なぜこういうサロンをつくったのか。その理由というわけではないですが、福原は『時事新報』に「日本人に最も欠けて居るものはこの共同動作の欠如と云ふとことであって、それは畢竟未だ人人が、共同社会の一分子としての存在を深く意識しない思想的欠陥に帰すると思はれる」と書いているんです。もはや檄文ですよね(笑)。
福原は個人主義でありながら、みんなと連帯して動くということを同時にやった人。だからこういう場所をつくって、銀座をどう活性化させるか、そして、場所と人をどう連動させるかをずっと考えていた。その取り組みって、完全にいまっぽいですよね。ナカムラさんがやっている6次元みたいです。場をつくって人を呼び寄せて、そこで討議する。
ナカムラ その文章、グッときました(笑)。昔の人は共同動作をするために茶室をつくって、距離を縮めたわけですよね。日本人は昔からそういう共同動作を取り込んできた。それが希薄になったので、もう一度「茶室化しよう」ということだったんだと思います。
「サロン」はヨーロッパ発祥ですが、「茶室的なもの」を日本でのサロンとすると、そもそも日本にサロン文化はあったとも言える。資生堂ギャラリーはいろんな人が入れ替わり立ち替わり行ってきた小さな「会」がまさしくサロンだったんじゃないかなという感じがします。
たとえば大きな流れで言うと、「白樺派」(*2)があり——資生堂ギャラリーではその中心人物である武者小路実篤(1885〜1976)の展覧会もやっています——白樺派の人たちが集まるサロンがあったわけですね。また、柳宗悦は自分たちの「民藝サロン」をつくっていく。そういう「サロン」はいろいろなところにあって、資生堂ギャラリーもある時代まではそういうサロン的な機能を果たしていたことは間違いないと思うんですよね。そのへんをもう一度再発掘する必要があるんじゃないでしょうか。
資生堂ギャラリーってすごいんですよ。いまは評価されているけれど、その当時はまだ全然評価されていなかった作家の展覧会を沢山やっている。例えばいま、すごく人気がある画家・高島野十郎(1890〜1975)は、ずっと埋もれていたんですけれど、デビュー直後の個展をここでやっているんですよね。棟方志功(1903〜75)もあまり評価されていない時代に個展をやっていたり、バウハウスに留学した山脇道子(1910〜2000)の展覧会もやってる。けっこうとんがっているんですよね。
ジャンルを縦断して、いろんな展覧会をやっていることは意外と知られていないことだと思うんですよ。だから資生堂ギャラリーはもう一回掘り返す価値があると今回すごく感じましたね。
武田 いつの時代もポップカルチャーと、それに対するいわゆるインディーズカルチャーやアングラカルチャーみたいなものがありますが、そういうものも引き上げている感覚があるんですか。
ナカムラ そう、あるんです。(絵画だけでなく)あらゆる芸術に関して、みんなで研究する会もあった。おそらく学校みたいなものだったんじゃないかと思うんです。そういう、育てていくという意識があった人なんじゃないかな。
僕もお店を10年やっていますが、場所を貸してくださいという人たちもくるんですね。それでちょっと気を許すと「貸画廊化」していってしまうんですよ。だいたいお店ってそうなってしまう。だってそのほうが楽ですから。けれど資生堂ギャラリーはかなりのハイペースで自分たちの展覧会をやり、それを100年も続けてきた。だからこそ銀座の重要な場所になったんじゃないかなというのを感じますね。
武田 その銀座について伊藤さんにお聞きしたいのですが、福原さんのテキストを読むと、銀座の街に対する思いの強さが随所に出てきますよね。新橋と銀座に道路を通そうとしたときにも、柳並木や煉瓦路だったかを守ろうとしたり、都市の景観や街のコンセプトを絶対に荒らさせないぞ、という意志を感じます。
伊藤 そうですね。銀座は関東大震災後から昭和のはじめにかけてどんどん近代化していくのですが、福原信三は震災以前の初期の銀座の光景を美しいイメージとして懐しかく思っていた。それとは対象的に、当時資生堂の意匠部部長だった高木長葉(ちょうよう、1887〜1937)は、自動車や路面電車が走っていて夜もネオンが鮮やかな新しい銀座の雑踏感を都市の新しい魅力として語っているんですね。二人の文章が当時の資生堂から発行されたブックレットに載っていたりするのですが、その対比は面白いかもしれません。
武田 日本の都市は大きな災害や催事があると建造物や街並みがリセットされて、街の景観がないがしろにされてきたわけですよね。2020年の東京オリンピックでも、そもそもオリンピック憲章には、使えるものはなるべく残して使いましょうと定められているのに、国立競技場がそうだったようにスクラップ・アンド・ビルドされてしまう。
そういうことに対する苛立ちを持ちながら福原さんのテキストを読むと、街のいい遺伝子を残しながら、どうやってそこに新しいものを投じていくかというセンスを企業のトップが持っていたというのは、非常に貴重なことだったんだろうなと感じますね。
展覧会に受け継がれる「福原イズム」
武田 資生堂企業資料館に行くと当時の広告が見られるのですが、デザイン性に富んでいて、「これ情報めっちゃ少なくない?」というようなつくり方をしているんですよね。
ナカムラ 当時は、詩人にキャッチコピーを書かせたりしていて、すごく面白い取り組みですよね。
武田 ヘアトニックの「資生堂フローリン」が発売さ入れた後、詩人・角田竹夫が「フローリン」と題した詩を書いています。その詩が「その透明なヘヤー・トニツクの/澄んだ光りが『銀座』をうつし(中略)夕立のやうなすがすがしさが/髪の艶からも読まれる」というもの。なかなかすごいです。「月見草」という香水も、福原さんは「月見草が砂原に咲いている、あの感じを匂いにしたいのだ」と言っている。説明よりもコンセプトを重視してみせた。
伊藤 香水だと普通はストレートに、「何を香りの原料にしてこういう感じになっている」ということを伝えますが、そうではない。比喩を使ってひとつ奥にあるものを間接的に伝える。ユーザーに連想させて商品の言わんとするところを伝えていた。だから詩にも通じたり、商品と芸術を同じ様にとらえていたところがあったんじゃないかと思います。
武田 本来、商品説明と芸術作品には距離があると思うんですけど、芸術を商品の世界に持ち込むというのは、当時としてはかなり斬新なものだったでしょうね。
ナカムラ この展覧会にもそういった「福原イズム」を感じられますよね。僕は「攻めてるな」と思うんです。
伊藤 「福原信三の美学」とあるので、来館者の方々は写真とか当時の資生堂のデザインがたくさんあるんじゃないかなと期待されるのですが、そういったアーカイブは少ないんです。
武田 美術展って、その多くでは、本人の写真と並んで長いプロフィールがあって、キャプションがあるものですが、そういうものが一切ないですもんね。
伊藤 今回は、福原信三の芸術家として写真家としての活動ではなくて、美に対して思索した人物だというところを伝えられないかと考えたんです。
大正から昭和にかけて、彼は200本近い文章を書いていまして、それをAIのテキスト解析で分析することを試みました。そしてその過程とともにそこから見えてくるものを現代の新しい世代のアーティストがどう受け取るのか、福原信三の美に対するエッセンスあるいは芸術家としての特性をどう受け取るのか、その反応をかたちにしたかったんです。
日本からはTHE EUGENE STUDIOが参加していますが、彼らは福原信三を「人が集まるパーラーをつくった人」というようにとらえたんですね。そして福原信三のエッセンスをかたちにするのであれば、「現代風のパーラー」を実現したらいいんじゃないかとなった。
では実際にどうやってこの空間に「現代風のパーラー」を落とし込むか。そこでイギリス建築家集団「ASSEMBLE」に打診したんです。彼らは、自分たちが実践している日常とアートを結びつけるような発想が福原信三の中にもあり、それは普遍的なものであると言ってくれた。そして話し合いを重ね、彼らによってカフェとしてデザインされたのがこの空間なんですね。
ナカムラ これって、例えばクリスト&ジャンヌ=クロードが橋をすべて布でくるむことで橋とは何かを問うような試みと同じだと思うんですよね。資生堂ギャラリーの中にパーラーをつくることによって、福原信三がやったことを荒削りに見せている。そういう意味ではすごく面白い展覧会です。
伊藤 どうすれば福原信三と時間を超えたコラボレーションが実現できるのかという実験ですね。福原信三は、AIで分析を試みてテキストをまとめたこのハンドアウトの中にいます。この資料や武田さんが書いてくれたブックレットを来場者の方々がこのカフェで読んでいただくことで、福原信三と来場者、そして我々との接点が生まれ、そこに新しい福原信三が見出せたらいいなと。
ナカムラ いま福原信三が見てたら、「やるじゃん」って言うと思いますよ(笑)。ここをサロンにすることで、福原信三のやっていたことに近づいていく。だからこのように「場」をつくっていくことは本質の部分ですよね。ただの展示としてではなく、日常の一部として浸っていくといいかもしれないですね。(後編に続く)
*1ーー1992年に開館。資生堂の文化施設「資生堂アートハウス」に併設するアーカイブ施設として、企業の歴史的記録や企業活動の結果生じた製品、宣伝広告物などを収集・蓄積。将来にわたって企業の経営資源として活用できるよう検証・研究活動を行っている。
*2ーー1910年創刊の同人誌『白樺』を中心に起こった文芸思潮のひとつであり、その理念や作風を共有していた作家達を指す。同人には武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦、中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄らがいる。