現地でアーティストに課せられた大きな負担
今回、話を伺った郁川舞氏は、東京を拠点とするアーティストだ。場に残された痕跡に着眼し、記憶、時間、不在といった「目に見えないもの」をテーマに、音を介し場と身体感覚をつなぐインスタレーション作品を制作してきた。
最初に、郁川氏が本芸術祭への参加を決めるまでの流れについて教えてもらった。郁川氏は24年10月、東京都内で開催された芸術祭の展示会場を訪れた際、知人から香川の新たな芸術祭で参加作家を募っているということを教えてもらい、インスタグラムのダイレクトメールで主催の奥廣氏とのやり取りを始めた。郁川氏は本祭の1ヶ月前から展示することで、芸術祭のプロモーションになるのでは、と考え展示スケジュールを決定した。
また、作品の展示条件も提示されていた。リサーチや制作にあたっての宿泊場所は無償で提供するが、それ以外の生活費、交通費、制作費、搬入費などはアーティストの自己負担。また、カタログの制作費用や会場の電気代といった運営費もアーティストが分配して払ってもらうということが伝えられていた。アーティストに大きな負担を強いるものだが、いっぽうで、すでに県や市からの助成は決定しており、助成金や寄付金が集まれば作家に分配していくことも示唆されていたという。なお、作品を出展する際の契約書等は交わされていなかった。
主催の奥廣氏は、いったいどのような来歴なのか。郁川氏が言うにはその実態もわからなかったそうだ。「一部ではアーティストという情報も出ているようですが、私たち作家に対しては、自分がアーティストだということは言っていませんでした。ただ今後、徳島でもキャンプ場や廃校を舞台にした芸術祭を実施する予定があり、東かがわ芸術祭で良かったアーティストはそちらでも展示する可能性がある、といった継続性を示唆していました」。
また、郁川氏は本芸術祭のスタッフが、実質的には奥廣氏ひとりであったことを指摘する。「ほかのスタッフの存在をほのめかすことはありましたが、リサーチから作品制作、辞退にいたるまで、奥廣氏以外のスタッフとやり取りをしたことはまったくありませんでした。基本的には、彼がひとりでこの芸術祭を実行しようとしていたのだと思います」。
展示のリサーチのために、郁川氏は24年の12月より、4回にわたって現地を訪れ、奥廣氏が提案した場所のなかから、引田地区にある民家での展示を決定。合計18日間を現地での準備に当てることとなった。準備の際は奥廣氏が展示場所を車で案内するといったやり取りがあったそうだが、キュレーションがされていたというわけではなく、作品をインストールするまでのスケジュールも郁川氏が自身で見通しを立てながら組んだものだった。

さらに、郁川氏は地元の人々と交流しながら作品を制作したいと考えていたものの、奥廣氏からはそうした交流を良しとしない雰囲気を感じ取っていたという。「詳細は言えないものの、地域とアーティストを分断するような動きがあり、交流しづらい状況でした。それでも、自分で地域の資料館などに足を運びながら、地域の人たちとコミュニケーションをして、地域の歴史や文化について多くのことを教えてもらいました。引田地区のみなさんには本当によくしてもらって、心から感謝しています」。
奥廣氏とアーティストとのやり取りはどのようなものだったのだろうか。現地の状況や準備の進捗などは、参加アーティストがメンバーとなったオープンチャットを介して進められたというが、構造的にほかの参加アーティストとのやり取りが難しい点があったと郁川氏は語る。「オープンチャットは特性上、参加者同士で個別のコンタクトが取れないようになっていました。基本的には奥廣氏からの連絡が一方通行で現地の準備状況が送られてくるというかたちです。そのため芸術祭が実質的に成り立たなくなっていることが発覚するまでは、どのようなアーティストが参加しているのか、ユーザーネームからある程度推測はできるものの、下の名前だけだったり、ニックネームの方も多く、不透明な状態でした」。



















