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マッカーシー家は冗談でなく瓦礫の山だった[図1]。ひしゃげたフェンスの枠の向こうに、焼けたテスラの残骸が見えた。展覧会のために渡英していたポールを待っていたのは、辛うじて残った庭のブロンズ像だった[図2]。メインのスタジオは別にあるとはいえ、自身の作品やアーカイヴもたくさん焼けたし、彼が集めた素敵なアートコレクションも一瞬にしてなくなった。娘でギャラリストのマーラ・マッカーシーの住処は、もとはアーティストのジェイソン・ローズの自宅だった。防火壁を備えたスタジオスペースもあったが、そんなのはまったく役に立たなかった[図3]。同様に彼らや私たちを消沈させたのは、ポールが1989年に自らの手で家を建ててから、家族も仲間も暮らすこの地で育んできたコミュニティが一瞬にして壊れてしまったことだ。
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アルタデナや北西部パサデナはロサンゼルス群内でも人種的に多様な地だ。アフリカ系の住人の割合が、ロサンゼルス郡の他エリアの倍以上を占め、また、戦後、収容所から戻った日系人たちが変わらぬ差別に苦しむなかで、不動産を買いやすい、比較的オープンだったのがこの地域だった(*1)。例えば、戦後の移住組でアーティストの池川司郎(1933〜2009)。いまとなってはほぼ忘れられた作家だが、彼のカリフォルニア・クラフツマンスタイルの自宅ガレージは、1970年代にパイオニア・プレス・クラブの活動拠点としても機能し、いまで言うインスタレーション的な大掛かりな版画を含む、コミュニティにも開かれた実験的な版画制作の拠点のひとつであった[図4]。池川の亡き後、エリック・ザミット(ライト・アンド・スペースのノーマン・ザミットの息子)のスタジオとして使われていたが、彼の作品群とともに、池川の大きな版画や絵画も焼失した[図5]。
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近年、家庭を持ち始めたアーティストやミュージシャン、ギャラリストたちがゆっくりと、だが確実に増えてきていた。不動産が高騰するなか、スタジオを兼ねたガレージ付きの住宅に辛うじて手が届き、それでいてカウンターカルチャーの雰囲気を持つエリアであったと、『ロサンゼルス・タイムズ』紙でも報じられ通りだ(*2)。
アーティストのケリー・アカシもそのひとり。リッソン・ギャラリーでの初個展を目前に、別の場所にあった作品数点と展示用の台座を除いて、すべてなくなってしまったという。展覧会は数週間の延期とし、周囲からの有形無形のサポートを得ながら、今回の災害で破損した作品の一部を使用したものも含む、まったく新しい作品群を発表する予定だ。