2015.9.19

日本写真史の空白③ 敗戦後の方向転換

静岡県のIZU PHOTO MUSEUMで開催中の「戦争と平和──伝えたかった日本」展。最終回の第3回は、写真家たちの戦後の仕事を紹介します。

『LIVING HIROSHIMA』 1949 広島県観光協会 表紙構成=原弘 表紙写真=菊池俊吉、林重男 個人蔵
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写真壁画《撃ちてし止まむ》ー3月10日の陸軍記念日にあわせて、東京・有楽町の日本劇場の外壁にこの巨大な戦意高揚の壁画が掲げられた日からちょうど2年後、アメリカは東京への大規模な爆撃を行いました。

敗戦から占領期へ。文化社の誕生

敗戦間もない1946年、連載第1回から登場する『FRONT』を制作した東方社は、社名をあらためて文化社として再出発します。メンバーは変わらず、写真家の木村伊兵衛、菊池俊吉、林重男や、デザイナーの原弘たち。文化社としての最初の本は、子ども向けの写真絵本『PICTORIAL ALPHABET―児童ABC絵本』でした。

「『PICTORIAL ALPHABET』は、進駐軍占領下の状況を意識してつくられた子ども向けの英語の教本です。企画は原弘で、使われているのは戦時中に撮影された、東方社時代の写真。かつて観光宣伝などで使っていたものですね。そして内容は、反米プロパガンダから親米というふうに変わっているわけです」(IZU PHOTO MUSEUM研究員・小原真史)。

『東京 一九四五年・秋』 1946 文化社 写真=木村伊兵衛ら 文=中島健蔵 個人蔵

文化社2冊目の本は、『東京 一九四五年・秋』という敗戦後の東京をとらえた写真集。進駐軍の購買部であるPX向けに、テキストには英語が併記されています。

『東京 一九四五年・秋』 1946 文化社 個人蔵

「今の東京は、まだ病後である。都市と呼ばれるにはまだ遠く、たえまのない注射と輸血、さういふ手当によつて、からうじて歩き出したばかりである。切開手術のきづあとがまだなまなましく残つてゐる。その傷口を縫つてゐる糸は、英語の道標だ」。本に収録された評論家・中島健蔵の言葉は、戦時中の日本は病気だったと表して、その傷口を縫うのはアメリカであると、非常に迎合的です。

広島の観光ガイド

戦後、日本を紹介する英文の印刷物はほかにもたくさんつくられました。なかでも『LIVING HIROSHIMA』は、戦後復興と県内景勝地を海外へアピールする「ダークツーリズム」のガイドブックといえます。広島県の観光協会が文化社に依頼した仕事です。

『LIVING HIROSHIMA』 1949 広島県観光協会 個人蔵 

「これは『LIVING HIROSHIMA』に掲載されている見開きページです。原爆孤児を『光の子』と呼び、原爆を経験した母子はともに美しく健全であると書かれています。写真の切り抜きなどが行われていますが、ここで使用されている技術は、戦中の『FRONT』と同じです。軍や官庁のサポートがなくなった東方社は、文化社となってからは戦後の荒波を乗り切ることができず、長くは続きませんでした」(小原)。

戦後、写真家たちは戦争について次第に語らなくなりました。木村伊兵衛はいわずとしれたスナップショットの名手として讃えられ、アマチュアの指導者のような立場となり、土門拳は「絶対非演出の絶対スナップ」を唱え、リアリズム写真を追求していきます。それは、戦中の対外宣伝において数多くの演出写真を手がけてきたことへの反動といえるかもしれません。彼らの戦後の仕事は、戦中からの連続のなかでとらえなければならないのではないでしょうか。

展覧会招待券を、5組10名様にプレゼントします!

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