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2020.11.7

論説:初期作品から「石器時代最後の夜」まで。ゼロ距離で曽根裕を考える〈前編〉

大理石の大型彫刻や、彫刻を用いたパフォーマンス、映像作品など多様な表現を展開する曽根裕。現在gallery αMでは、長谷川新をゲストキュレーターに迎えた2020〜21年度のプロジェクト「約束の凝集」の第1回として、東京では約9年ぶりとなる曽根の個展「石器時代最後の夜」を開催中だ。曽根の初期作品から本展までの活動を、「約束の凝集」第2回の参加アーティスト・永田康祐が論じる。

文=永田康祐

「約束の凝集 vol.1 曽根裕|石器時代最後の夜」(gallery αM、2020)展示風景より、曽根裕《Birthday Party 1965-2020》(2020) 撮影=守屋友樹
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ライク・ルッキング・フロム・ゼロ・ディスタンス

そうしていつも旅ははじまる

 2002年に描かれた曽根のドローイングによれば、曽根の人生は〈ビルディング ロマンス〉(*1)という10章からなる物語のようなプロジェクトとして構想されている。この物語は、「言葉によってではなく、できごととそれらをめぐる感情、風景によって綴られ」ているため(*2)、私たちはそれを読むことはできないが、物語の各章は、曽根の作品や展覧会、プロジェクトとして実現されてもいる。物語の章立てとプロジェクトの実施の順番は一致しておらず、第9章の〈すべての旅の終りから〉は1997年頃から実施されており、第2章の〈ダブル・リバーへの旅〉は02年頃から行われている(*3)。そしてこれらのプロジェクトのなかでいくつもの展覧会や作品が制作されている。そのため、このドローイングを真に受けるならば、曽根のすべての作品はこの〈ビルディング ロマンス〉という壮大なプロジェクト=人生として計画されていることになる。​​

「ダブル・リバー島への旅/曽根裕展」(豊田市美術館、2002)図録より、10章構成の〈ビルディング ロマンス〉 Courtesy of Yutaka Sone Studio.

​​ もちろん、こうしたドローイングがあるからといって、すべての作品が一貫したプロジェクトのもと計画されているのだと考えるのは早計だ。ドローイングは02年に描かれているため、〈ビルディング ロマンス〉は過去のプロジェクトを反省的に組織しなおしただけだともいえる。しかし、もしそうだとしても、彼の作品やプロジェクトが人生のなかに位置づけられているという事実は見過ごすことのできないことのように思われる。実際に曽根の作品は、彼の大学院修了制作作品である《建築家になるための16の道具》(1992)をもとに実現されたものがいくつもあるし、プロジェクトは相互に密接に関連しながらより大きなプロジェクトを浮かび上がらせている。​

​ 曽根の活動は、後述するように高度にコンセプチュアルであったり、メガロマニアックで非人間的であったり、現実との紐帯を見出せないほどに荒唐無稽であったりする。しかし同時に、こうした発想は、たんなる概念的なゲームであるというよりも、曽根自身の実存と強く結びついたかたちで行われている。少なくないアーティストにとってそうであるように、曽根の作品もまた、曽根の人生によって貫かれている。そして、彼の人生と作品の接続が強ければこそ、作品は強い一貫性を持つことになるだろう。

 曽根の発言やテキストのなかには「風景」という単語がたびたび登場する。曽根はこの単語を「なにか丸ごとの存在を内包する場所、あるいはその存在に触れる契機」といった意味で用いているのだが、曽根の活動は、一貫してそうした「風景」の「完璧さ」へと向かっている(*4)。だが、それは必ずしも曽根が厳格な完璧主義者であることを意味しない。曽根の作品において「完璧さ」は、その困難さゆえに、つねにそこへの過程として示される。そのため、曽根の初期の作品では、そうした困難な課題へと向かうプロセスが映像やワークショップによって提示されている。そこでは、けっして達成されえない完璧な風景が、虚実入り混じった荒唐無稽な物語によって、不可能性の逆説的な提示によって、コンセプチュアリズムによって、示されている(ここでコンセプチュアリズムとは、概念的で知的な操作に基づくものであるという一般的な理解の前に、現前しえないものに対するロマンチックな希求なのだ)。

 しかし同時に、98年以降曽根の作品は、それ以前に用いられていたビデオやパフォーマンスのようなダイナミックな形式から、大理石や籐編の彫刻といったスタティックで、一見すると完結したように見える形式に依拠するようにもなっており、ここにある種の断絶ないしは転向を見ることもできよう。後述するように、じつはこれらの彫刻作品においても、曽根のプロセスへの関心は、ビデオなどによって提示される作品のアウトプットの水準から制作プロセスの水準へと移行しているだけなのだが、少なくとも作品を一見するかぎりではそれ以前とのつながりは見えにくい。さらにいえば、曽根の彫刻作品の核心を制作のプロセスと同一視することは、それ自体が誤りではないにせよ、作品の表面で起きていることから目をそらすことになりかねない。そのとき作品は、作品にまつわる「裏話」をするためのきっかけに過ぎないものになってしまうだろう。

 たしかに、曽根の活動において、彫刻作品単体が曽根のプロジェクトの壮大さに対して相対的に目立たないということは認めざるをえない。しかしそれはあくまでも相対的なものだし、また鑑賞者である私たちからすれば、目の前にある曽根の彫刻作品を、キャプションに示された「裏話」を読むことによってではなく彫刻作品自体を見ることによって、鑑賞する可能性を縮減するものにはなりえない。さらにいえば、曽根の作品が曽根の人生=物語に貫かれているならばこそ、それぞれの作品はたんなるプロジェクトの成果品であったり、展覧会やプロジェクトという単位を成立させるだけの構成要素であったりするのではなく、それ自体が内在的に読解可能なものであるはずである。

 曽根の人生=物語は、いっぽうで大まかなプロットによって構想されるものだが、しかし他方でそれは個々のプロジェクトや作品によって生成されるものでもある。そしてなにより、20年の現在において〈ビルディング ロマンス〉は、「お楽しみの章」なのだ。曽根のプロット=一貫性にはつねにそこからあふれ出ていく「遊び」がある。私たちは、曽根の作品を一貫した物語の構成要素としてとらえるだけでなく、それ自体を生成の契機としてとらえる必要があるだろう。

 そのため本稿では、曽根の彫刻作品、とくに大理石の作品について中心的に扱う。前述の通り、曽根の大理石彫刻には、それ単体からはその意味を汲み取るのが困難な作品が少なくない。彫刻作品は、展覧会というパッケージで示されることによって、展覧会というひとつの物語のなかに配置され、ときにキャプションによる裏話の補完に助けられながら機能するが、そこでは作品内在的な論理は後景に退いてしまう。

 曽根の彫刻作品の内在的な論理を、それが生み出されるプロジェクトの水準と同等に検討し、プロジェクトと彫刻作品がどのような関係を構築しているかを明らかにすること。それが本稿では目指されている。このような論立ては、ひょっとすると読者の目にはきわめてモダニズム的、より正確に言えばモダニズム的なフォーマリズムに映るかもしれない。しかし本稿は、彫刻や絵画といった形式への立脚がすぐさまモダニズム的な縮減へ向かうものではないという確信に基づいている。彫刻はむしろ、彫刻でしかないという極限的な状況において、その近代的な条件を解除するだろう。

 曽根はいっぽうで壮大でオープン・エンデッドなプロジェクトを構想し、他方でひとつのまとまりへと有限化された彫刻作品の制作に取り組む。曽根の作品におけるこの両端を結びなおすことは、彫刻の近代的な条件を解除するとともに、プロジェクトという単位をより自由な広がりを持つものとして再解釈することにもなるだろう。
 

ビルディング ロマンス

 まず最初に2020年の『石器時代最後の夜』に至る、曽根の大まかなバイオグラフィーを作品とともに確認しておきたい。

2003年にロサンゼルス現代美術館で行われた個展より、曽根裕《19番目の彼女の足》(2001) Courtesy of Yutaka Sone Studio.

​​ 曽根の実質的なデビューは、93年に水戸芸術館で行われたワークショップと個展であり、その後も曽根は映像作品やパフォーマンスを中心に作品を発表している。水戸芸術館で行われた『19番目の彼女の足』は、前輪がない自転車のサドルの後ろにハンドルのついた一輪車のような作品とそれを用いたワークショップからなり、展示に先立って開催されたワークショップでは、19人の公募参加者とともにこの自転車を実際に連結して漕ぐ公開練習が行われた。参加者たちは一匹のムカデのように互いの脚を協調させ、バランスを崩さないように前進することが求められる(*5)。しかし、この自転車の連結部分はきわめて不安定なボールジョイントになっているため、ワークショップの参加者はすぐさまその協働の困難に直面する。ワークショップの終盤には、2~3台の連結を乗りこなせるようになった人々もいたらしいものの、19台連結したときの前進記録は3メートルだったという。​

​ この作品はそのため、協働による集合的な主体についての作品であると同時に協働の不可能性をも示している。「ワークショップの参加者は、コミュニケーションを強いられ、望むほどにディスコミュニケーションに直面する不条理」(*6)を体験する。しかしこの不可能性は、19台の自転車が連結された状態の優美なインスタレーションとともに展示されることによって反転し、すべての自転車が協調した、完璧な協働の光景を参加者や鑑賞者に想像させる。完璧な状況が現実には実現しえないからこそ、曽根はその不可能性を通じて、逆説的に鑑賞者にそれを提示するのである。

 こうした方法論としての不可能性は《月の裏側に人工芝を敷くパフォーマンス》(1994)に端的に現れている。この作品は、曽根がスペースシャトルで月に赴き、地球上からは見ることのできない月の裏側に人工芝を敷くという架空のパフォーマンスを合成写真や架空のインタビューによって示すというものだ。この作品の一部になっている「Dr.HG」による架空のインタビューのなかで曽根は以下のように語っている。

Dr.HG:率直に言って、人工芝はなぜ月の”裏側”に敷かれたのですか?
曽根:そのためには、僕が「見えない部分」を見ていたときの話を始めなければなりません。そのとき、僕はかなり長時間「見えない部分」を見ていたのですが、「見えない部分」が、それは美しく輝きをはなっていて、そのあまりの美しさについて考えざるを得なかったのです。「見えない部分」はなぜこんなにも美しいのか。ある意味で僕の作品はすべて〈この月面のプロジェクトをふくめて〉そのための実験といえます…(*7)

 曽根の作品において、その「美しさ」は「見えない部分」という現前しえなさに関わっている。不可能なものとしての「見えない部分」を見ようとすることによって、私たちはその鮮やかな美しさを想像するのである。

 98年に中国の工場との協働を開始し、00年に拠点をアメリカへ移してからは、《バースデーパーティー》(1997)などのエフェメラルで協働的な作品と並行して、大理石や籐編による彫刻作品が制作されるようになる。大理石の彫刻はおもに中国、籐編の作品はメキシコの工場で制作が行われ、曽根はロサンゼルスと崇武、ミチョアカンという3つの拠点を行き来しながら制作を行う。より広い制作の拠点を持ったことによって、曽根の制作の中心は映像やパフォーマンスから、彫刻へと徐々に移っていく。

 《ホンコン・アイランド/チャイニーズ》(1998)は、曽根の初めての大理石彫刻であり、香港の夜景を彫刻したものだ。夜景の光という非物質的な対象を大理石という物質によって再現するという試みがここでは行われている。12年後の10年にはマンハッタン島の夜景をモチーフにした《リトル・マンハッタン》も制作されているが、これらはいずれも都市を彫刻する試みであるとも要約できる。これらの作品において都市は、夜景という都市での人々の営みを経由して彫刻されている。​

曽根裕 ホンコン・アイランド/チャイニーズ 1998 Courtesy of Yutaka Sone Studio.
曽根裕 ホンコン・アイランド/チャイニーズ 1998 Courtesy of Yutaka Sone Studio.

​ 曽根のこうした都市に対する関心は、《建築家になるための16の道具》をもとにつくられた作品《地名世界一決定戦》(1995)にも現れている。この作品では、曽根が個人的に美しいと思った地名をノミネートし、独断のもとに行ったトーナメント戦の結果がモヘア糸の巨大な編み物として提示されている。この荒唐無稽な作品は、しかし、曽根の都市についての考えを端的に語っている。曽根にとって、都市とは、地名のなかにこそ息づいているものなのだ(*8)。曽根の作品において、都市は、物理的対象として存在しているのではなく、そこで発生する様々な出来事として、すなわちそこでの営みから生まれる夜景として現れてくるものであり、個々人の想像力と記憶によってつくられる「地名のなかの空間」なのである。光や地名がそうであるように、都市もまた非物質的な対象なのであり、これらはともに出来事としての都市というとらえることが困難な対象への二通りのアプローチであるといえるだろう。

 18年に帰国してからは、崇武とミチョアカンの拠点を残しつつ、ロサンゼルスのスタジオを高松に移して、以前から温めていた〈石器時代最後の夜〉のプロジェクトに本格的に取り組み始める。「石器時代最後の夜」は、20年の個展のタイトルでもあるのだが、この展覧会に際して曽根は、崇武で大理石製コンピュータ《PC: The Last Night of the Stone Age(Prototype v1)》(2020、*9)を彫刻作品として制作し、高松で讃岐産の凝灰岩を用いた《Double Log(Washinoyama tuff)》(2020)を現地の職人たちとの関係を深めながら制作している。これらの制作過程は本人やプロジェクトメンバーによって撮影され、98年から続く崇武の職人たちとの協働の記録映像とともに映像作品として、渡米前から現在に至るまで断続的に行われてきた《バースデー・パーティー》の映像作品や《Double Log(Washinoyama tuff)》、大理石製のコンピューターとともに展示されている。

 ここでは、曽根の彫刻における協働的な側面が提示されている。11年の個展『パーフェクト・モーメント』(2011)の図録においてキュレーターの遠藤水城が指摘するように、曽根の映像作品やパフォーマンスにおける協働的なあり方は、大理石彫刻においては、その制作プロセスのなかで発生している。それは、コミュニケーションによる関係性から生産による関係性への転換であり、芸術的な実践のための協働から生活や労働をも含めた社会的な実践としての協働への変化なのである(*10)。

 このように曽根のバイオグラフィーを見通しながら現在の曽根の展覧会を見渡してみると、それはとても見通しの良いもののように思えてくる。曽根は当初、映像やパフォーマンスのようなエフェメラルなメディアを用いて作品を制作していた。だが渡米する頃からは、制作拠点などの理由から彫刻作品の制作へと転向する。ゆえに18年までの曽根のキャリアはおおまかにふたつに分けられる(以降便宜的に、98年以前を「前期」、98年~18年を「後期」、18年以後を「現在」と呼ぶことにする)。前期では映像やパフォーマンスのような非物質的かつ協働的な関係によって構築される作品が中心となっており、後期では物質的かつ自律的に見える彫刻作品や絵画作品の制作が中心となっている。そして20年の個展では、前期と後期の断絶の間に通底するものがあると示される。曽根は98年以降もエフェメラルな関係性を作品の形式として考え続けており、それはヨーゼフ・ボイス的な彫刻概念を結節点にして(最初の《バースデー・パーティー》はミュンスター彫刻プロジェクトにあわせて制作された)大理石の彫刻へと結びつく。そしてまた、前期の作品に見られるような関係から立ち上がる作品の特徴は、後期の作品においてはその制作の過程のなかに組み込まれているのである。

 さて、このような整理は、曽根の作品や展覧会のとらえ方として大きく的を外しているわけではないと思うし、曽根のキャリアを知らない鑑賞者にとって彼の作品や展覧会を鑑賞するための補助線として機能するだろう。しかし、前述のように、このような整理をすればするほど、曽根の彫刻作品からは離れていってしまうように思われる。

 たしかに98年以降の曽根の彫刻作品は、一見すると静的で自律した彫刻作品のようであるのと同時に、その制作の過程に協働の形式を携えている。そこに以前の作品との連続性を見ることはできるし、それは遠藤が指摘したように、「関係性の芸術」がコミュニケーション労働を前提にすることによって取りこぼしていた、生産労働の潜勢力を顕在化させるものであるだろう。だが、曽根の彫刻を「関係性の芸術」との類比のもとにプロジェクトのなかに組み込まれたものとしてとらえてしまうと、作品内在的な論理をとらえることが困難になってしまう。そこでの彫刻作品は、あくまでもプロジェクトを発生させるためにつくられるものになってしまうからだ(キュレーターのニコラ・ブリオーが指摘するようにリクリット・ティラヴァーニャのつくるタイカレーは、関係性の「触媒」なのであり、そのためにはタイカレーは「ただのタイカレー」である必要がある)。そして、その彫刻の内実を考えようとすればするほど、目の前にある彫刻からはけっして読み取れない「裏話」が必要とされる。だが曽根の作品はプロジェクトを発生させるためのたんなるマクガフィンではないし、同様に、曽根のプロジェクトは作品の「裏話」ではないはずだ。曽根の作品を、まずもって彫刻作品という単位からとらえる必要があるだろう。

…… 後編へ続く

「約束の凝集 vol.1 曽根裕|石器時代最後の夜」展示風景(gallery αM、2020) 撮影=守屋友樹

*1──曽根は、同じ名前の作品やプロジェクト、展覧会を形式問わず幾度となく行っている。それは後述するように、プロジェクトや作品、展覧会といった区分や、個々の作品の分節についての曽根の考えの現れでもあるのだが、本稿では便宜的に、作品の制作年は同タイトル同形式の作品の初出年とし、プロジェクト名は山括弧〈〉、展覧会名は二重鉤括弧『』、作品名は二重山括弧《》で表現して区別することとする。なおプロジェクトに関しては、他のプロジェクトとの密接な絡まり合いのなかで正確な開始時期を持たないままゆっくりと始まっているため、開始年は表記しないこととする。
*2──「言葉によってではなく、できごととそれらをめぐる感情、風景によって綴られるこの物語を、当然ながら、わたしたちは読むことができない」(西原珉「これまでのあらすじ」『ダブルリバー島への旅』[豊田市美術館、2002]、4頁)
*3──曽根のドローイングには02年と書かれているが、00年にはすでに〈ダブルリバー〉という絵画作品が制作されている。
*4──「彼はいまやこの言葉〔=風景〕を、観光や旅などの言葉から連想されるそれではなく、なにか丸ごとの存在を内包する場所、あるいはその存在に触れる契機といった意味合いで用いていた」(西原、前掲書、60頁)
*5──西原によれば『19番目の彼女の足』は、曽根のムカデの身体についての疑問から着想されている。曽根のアイデアの断章には以下のように綴られている。「ムカデのことを考えていた。どうやったあのたくさんの足を動かすのか一匹のムカデは一匹ではない?とにかくその小さな生物の声を聞かなければならない」。(西原、前掲書、20頁)
*6──西原、前掲書、20頁
*7──「曽根裕へのインタビュー」『曽根裕展 SPACE LUXURY ART-人工芝を月の裏に敷くパフォーマンス-』(細見画廊、1994)、1頁
*8──「『地名』のなかには空間が横たわっており、都市もまたその空間(都市の名)にこそ息づいている、というこの作品のおおもとのアイデアは、前述した大学院修了作品「建築家になるための16の道具」にすでに挙げられていたものだ。〔中略〕都市の名前が美しいかどうか判断するのは、曽根の主観であり、地名のなかの空間とは個人の想像力と記憶の産物である以上、ここで主観を行使することに曽根は何のためらいもなかったという」(西原、前掲書、40頁)
*9──本作は筆者と曽根の共同制作による。
*10──「曽根は、参加的な要素を含んだプロセス志向のプロジェクトから、スタティックな大理石彫刻に移行したのではない。その『協働的』な要素や『プロセス志向』は実は全く変わらずそこに維持されており、『出会い』や『関係性』は絶えず重要な媒体として組み立て直されつづけている。移行は、曽根がその実践の形態を、コミュニケーション労働から生産労働へ、サービス産業から手工業へと変容させたことのなかにある」(遠藤水城「大理石・彫刻・プロジェクト:ポストモダニズムにおける実践と媒体」『曽根裕| Perfect Moment』[月曜社、2011]、84頁)