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2020.11.8

論説:初期作品から「石器時代最後の夜」まで。ゼロ距離で曽根裕を考える〈後編〉

大理石の大型彫刻や、彫刻を用いたパフォーマンス、映像作品など多様な表現を展開する曽根裕。現在gallery αMでは、長谷川新をゲストキュレーターに迎えた2020〜21年度のプロジェクト「約束の凝集」の第1回として、東京では約9年ぶりとなる曽根の個展「石器時代最後の夜」を開催中だ。曽根の初期作品から本展までの活動を、「約束の凝集」第2回の参加アーティスト・永田康祐が論じる。

文=永田康祐

「約束の凝集 vol.1 曽根裕|石器時代最後の夜」 展示風景(gallery αM、2020) 撮影=守屋友樹
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フロム・ゼロ・ディスタンス

 前編で《ホンコン・アイランド/チャイニーズ》において述べたように、この作品ではふたつの困難へのアプローチが行われている。ひとつは都市の表象不可能性への取り組みであり、もうひとつは光という非物質的で造形しえない対象を大理石という物質によって彫刻するという取り組みである。この後者の取り組みは、のちに《映画館》(2017)や《木のあいだの光》(2010)シリーズへと展開している。​

曽根裕 木のあいだの光#2 2010 崇武のスタジオでの制作風景 Courtesy of Yutaka Sone Studio.

​ 《映画館》では、映写機ないしはプロジェクターの光が映画館の客席とともに造形されている。ここでは、光学的には想定されるが実際にかたちとして見ることのできない焦点化された光の軌跡に形態が与えられ、観客が普段意識していない映画館の「狭さ」が形態化されている。《木のあいだの光#2》(2010)では、木漏れ日によるフレアが木々とともに大理石で彫刻されている。この作品において、フレアという、カメラレンズや水晶体といった受容器の側で発生する現象は、照明などの付加的な演出によって表現されるのではなく、実際に彫刻の一部としてかたちが与えられている。ここには物質と現象の区別はもはやなく、木漏れ日はそれ自体フレアと同一視されている。木は木漏れ日とともにあり、木漏れ日はきらめきとともにあるという出来事の連続性が、物質と現象や原因と効果に切断されることのないままひとつの彫刻へと結晶している。曽根にとって、彫刻は物質の複製ではなく、出来事の形態化なのである。そしてそれは、光のように見たり感じたりすることはできるがエフェメラルでかたちのない風景にかたちを与え、実際に触れることができるようなものにする「可触化」の作業なのである。曽根にとってかたちとは、見ることのできるものである以上に触ることのできるものである。

 このような原理的ないしは物理的な彫刻の困難さへの取り組みは、その他の大理石彫刻の作品にも見ることができる。例えば、《大観覧車》(2010)や《アミューズメント》(1998)では、造形対象の縮尺のために、その細部が大理石が自立可能なサイズよりも小さくなってしまうことによって、実際の観覧車やローラーコースターにはない細部が生まれている。《大観覧車》にしても《アミューズメント》にしても、その構造を成立させている鉄骨は大理石で再現するにはあまりに細すぎるために、ちょうど鉄骨にシャボン膜が張っているかのように、それらの間を埋める面が発生している。

 曽根の彫刻におけるこうした造形の困難さへのアプローチと、それによって発生する妥協的な細部は、いかなる対象であってもそれを石で再現しなければならないという石彫の根源的な困難を全景化させるのみならず、観念=理想と現実との鮮やかな衝突として現れている。石で再現された厚ぼったいフレアや鉄骨の間に発生している面が私たちに伝えるのは、曽根が想像するイメージと大理石によって物理的に可能な形態との間で発生する緊張だ。それは、モダニズムにおいてしばしば指摘されるようなメディウムの物質性の提示というよりもむしろ、作品が具体化する際に作者の発想(コンセプション)との間で発生する不可避的な摩擦の顕現(マテリアライゼーション)であるといえるだろう。

 そしてまた、こうした摩擦の顕在化は、曽根の前期の作品と対照をなしている。前期の作品においては、不可能性や失敗は、対象の不在という否定神学的な方法へとつながっていたのに対して、後期の彫刻作品では「可触化」という肯定的な方法へとつながっている。そして、見えていても触ることのできない出来事や現象の「可触化」は、制作という具現化のプロセスにおいて観念=理想と現実の間で摩擦を発生させるのみならず、私たちの認識を見ることと触れることの間でかき乱すものにもなる。

ニューヨーク・ハイラインでのグループ展「Panorama」(2015〜16)展示風景より、曽根裕《リトル・マンハッタン》(2007〜09) Courtesy of Yutaka Sone Studio.
ニューヨーク・ハイラインでのグループ展「Panorama」(2015〜16)展示風景より、曽根裕《リトル・マンハッタン》(2007〜09) Courtesy of Yutaka Sone Studio.

 《ホンコン・アイランド/チャイニーズ》や《リトル・マンハッタン》は、前述の通り、光についてのシリーズであると同時に、これらは島についての作品でもある。この作品では、島という存在が形態的まとまりを実際には持ちえないということが、その基部に現れている。島はぽっかりと海上に浮いているものではなく、海底で他の島や大陸と連続したひとつの面を形成しており、また、香港島であれば港珠澳大橋のようなインフラストラクチャーによって島と本土の間は架橋されている。ところが曽根の香港島では、橋は島の湾岸線に沿って不自然に切り取られ、海底部分は彫刻の基部へとモーフィングするように溶解している(*10)。

 曽根の香港島の作品におけるこのような端部処理は、私たちの認識(それは理念であり、制度でもある)と物質として存在する世界の折衝として現れている。私たちは香港島を香港島というひとつのまとまり=形態として認識する。しかし、香港島と中国本土の間には両者を分割しうるいかなる物理的な境界線も存在しない。私たちは素朴な思考においては香港島が実際に存在すると考えている。しかし、一度反省的に香港島という存在がどのようなものか考え、詳細に造形しようとすると、急にその境界はぼやけ、存在が疑わしくなってしまう。

 木漏れ日であれ、香港島であれ、曽根の作品におけるこうした不確かな存在の造形は、ちょうど雲について考えることに似ている。雲は、遠く離れた距離から見る限りではひとつの白い塊としてとらえることができるが、さらに詳らかに観察しようとして雲へと接近すればするほど、その境界はどんどんぼやけていき、最終的にはぼんやりとした水の粒子へと霧散してしまう。香港島も木漏れ日も、こうした距離において存在するものなのだ。曽根は、そうした存在に大理石で形態を与えることによって、接近することを可能にする。曽根の前期の作品は、《見えない部分を見る眼鏡》(1993)や《月の裏側に人工芝を敷くパフォーマンス》などに見られるように、見えないものや見えないこと(=不可能性)の可視化に関わっているが、これらの彫刻で試みられているのはむしろ見えていることの彫刻である。曽根の彫刻における「可触化」は、この見ることの臨界点、すなわちゼロ距離で見ることであるといえるだろう。

 曽根が中国での彫刻制作を始めたとき、そこで試みようとしたのは、言葉を介さずに彫刻を介して協働することだったという。曽根によれば、彫刻をつくるなら言葉を使うよりも実際につくったほうが早いからだ。いまとなっては曽根は片言ながらも早口で閩南(びんなん)訛りの北京語を捲し立てているが、20年前はおそらく幾度とないコミュニケーションの失敗をし続けていただろう。しかしそれでも、石が曽根や職人の目の前にある限り彫刻は「生まれてきてしまう」のである。

 ここで『19番目の彼女の足』におけるコミュニケーションの不可能性への注目は、むしろコミュニケーションが失敗し続けても何かが生まれてきてしまうという現実へと折り返される。「道具」を経由したコミュニケーションの不可能性は、曽根の彫刻においては、彫刻を実際に触れながら進めるというゼロ距離のコミュニケーションによって可能性へと転じているのである。

 『石器時代最後の夜』で配布されるハンドアウトなどの資料のなかに、曽根自身による詩が掲載されている。この詩は、展覧会に先立ってYouTubeで公開された映像作品《The Light(Washinoyama 4-5th of March 2020)》(2020、*11)のなかでもナレーションとともに用いられているが、ここでは、夜通し続く焚き火の風景が一人称視点で描かれている。詩の詠み手は、その焚き火で何が行われているか知らないのだが、私たちは詩のタイトルからそれを想像することができる。キュレーターの長谷川新は、同展ハンドアウトの作品解説文のなかで曽根との会話を引用しながら次のように書いている。

 気が遠くなるほどの昔、自然銅を熱して溶かそうとする人類がいた。当時の技術ではあまり高温にできないためか、彼らの溶かした銅は一晩たたずに冷え固まることになる。「つまり」と曽根は言う。  「つまり、それが石器時代最後の夜なんだ。」  焼(く)べていた火がとろけるように静止し、銅は固体と液体の間を揺れながら、不定形の、しかしある一定の形へととどまっていく。石器時代最後の夜はこうして具体的に想像が可能だ。もちろん、さまざまな人々がさまざまな鉱物を火に焼べたはずで、複数のルートから次の時代が始まったんだろう(ここでは単純に金石併用時代、青銅器時代、鉄器時代などとわけることはやめておこう)。だからそれぞれの地域で、それぞれの文明で、複数の石器時代最後の夜があったはずだ。  しかしいっぽうで、曽根は(あるいは私たちは)現在も石を利用し続けながら生きている。90年代の中頃に大理石と出会って以来、曽根のつくる作品の多くは石であり、曽根の周りには多くの石工たちがいる。「作品をつくる過程の90%は石を破壊することだ」と曽根は笑うが、曽根を含む石工たちの技術は抜きんでていて、彼らは今日もグラインダーで石を削り生活を営む。だから、石器時代はまだ続いているのだ。石器時代最後の夜は、ずっと未来に訪れる。(*12)

 曽根は、石器時代の終わりを具体的に想像することで、その複数性と、境界の曖昧さを描き出す。しかしその複数性と曖昧さは、石器時代が虚構的なものだということを意味しない。むしろその具体的な想像は、石器時代の終わりがたしかに存在していただろうこと、そしてそれが別なかたちで私たちの身にも起こりうるだろうことを鮮やかに示している。ここでは曽根の彫刻における接近の方法論は、時間へと展開している。曽根の彫刻作品において、曖昧な存在への接近が「可触化」を通じて試みられているのと同じように、『石器時代最後の夜』では、一人称視点の詩による、まさに只中にあること(=時間的接触)の想像によって、その時間的な複数性が実在的なものとして描き出されているのである。
 

風景へ

 さて、ここまで曽根の作品についてプロジェクトと作品単体というふたつの観点からおもに現在までの曽根のキャリアを前半と後半に分けて論じてきた。おもに前期のプロジェクトやワークショップでは、不可能性や失敗が方法論として用いられ、「見えない部分」の美しさが、その不在によって表現されている。それに対して後期の彫刻作品では、(普通は見ることのできない)観念的な事物が、その不確かさを彫刻の細部に残しながらも「可触化」されている。そして前期ではその不在を示すために、「見えない部分」へ向かうプロジェクトの過程が重視され、その記録が作品の構成要素になっていたのに対して、後期ではそれらが彫刻作品という形式で「可触化」されているためにプロジェクトの過程は後景に退いている。曽根の作品の協働的な側面が前期ではコミュニケーションの水準に現れているのに対して、後期では生産の水準に現れているという遠藤の指摘する変化は、不在による提示から極限的な接近としての「可触化」への変化によって生み出されているといえるだろう(*13)。

「約束の凝集 vol.1 曽根裕|石器時代最後の夜」(gallery αM、2020)展示風景より、曽根裕《Double Log (Washinoyama tuff)》(2020) 撮影=守屋友樹
「約束の凝集 vol.1 曽根裕|石器時代最後の夜」(gallery αM、2020)展示風景より、曽根裕《Double Log (Washinoyama tuff)》(2020) 撮影=守屋友樹

 このような変化は、曽根のプロジェクトにおける作品単体の役割にも大きな影響を与えている。『19番目の彼女の足』は、作品としての《19番目の彼女の足》とワークショップの記録から構成されているが、曽根はこの作品を「ツール」であると述べている。『19番目の彼女の足』において、「ツール」は出来事としてのワークショップを成立させる道具ではあるものの、それ自体が作品であり、出来事は可能性としてその作品の内部に畳み込まれている。ワークショップはそれ単体で作品なのではないし、ワークショップは作品をつくるために開催されるのでもない。作品はワークショップのために制作され、それぞれのワークショップを生み出すのである。

 曽根の彫刻作品も、プロジェクトとしての協働のためにつくられるが、それ自体独立した作品であるという点で、この「ツール」と類似している。しかし《19番目の彼女の足》において、プロジェクトが展覧会のなかである程度完結したものになっているのに対して、後期の曽根の作品において両者は必ずしも一致しなくなっている。

 キュレーターの西原珉は、曽根の活動において、一度スタートしたプロジェクトが美術館などでの発表によって完成となることがないと述べ、《19番目の彼女の足》でも様々なバージョンが制作され、ワークショップが繰り返され、幾通りものインスタレーションが試みられていると指摘している(*14)。こうした曽根の活動におけるプロジェクトの「終わらなさ」は後期の作品においてより顕著になり、もはやプロジェクトの外縁も曖昧になっている。

 つまりこうしたプロジェクトは、展覧会に際して組織されるようなものではなく、むしろ展覧会を組織しているのである。展覧会は一般的にキュレーターによるアーティストの選定があって行われるし、最終的にはその構造は変わらないのだが、曽根は〈100回連続プレゼンテーションの失敗〉(*15)の存在から想像されるように、自分のプロジェクトを継続するために展覧会を開くよう主体的に働きかける。展覧会としての『石器時代最後の夜』はプロジェクトとしての〈石器時代最後の夜〉の過程であり、それ以前の展覧会(『Obsidian』(2017)の展覧会図録に前述の詩が掲載されていたことから、曽根の石器時代への関心は以前から継続したものであることがわかる)や作品、そしてこれから開かれるかもしれない展覧会やつくられるかもしれない作品との連続性のなかにある。曽根の活動において、プロジェクトとは、そのアイデアから作品を継続的に生産し続けることなのだ。

 おそらく、作品の継続的生産としてのプロジェクトというあり方は、曽根の人生がそもそも〈ビルディング ロマンス〉として計画されているように、曽根の活動の初期からずっと続けられていたのだと思われる。しかし前期の作品においては、作品は虚構や不在によって示されていたため、生産のプロジェクトは「不在のための生産」のプロジェクトになっていた。それに対して、後期では作品は彫刻として「可触化」されることによって、プロジェクトは生産の只中で行われるようになる。

 それは曽根の同世代のアーティストたちが、社会的なプロジェクトを美術館の外で、必ずしもアーティスティックなメディウムを用いずに行ったことと対照的だ。曽根は食事会やフェスティバルといったイベントを組織することによってではなく、彫刻を制作するという内在的な実践のなかに社会性を見出す。そこでは、作品の制作がそもそも社会的な営みであるという単純な事実が前提されている。

 モダニズム彫刻の誕生を複製の再発見とそれに伴う制作の委任に見るなら、ポストモダンの実践もその延長にあるということができる。モダニズムにおいて、その社会的紐帯は彫刻の自律性のために周縁化され、作品からそのプロセスが切り離されている。作品は展示室において完結するものであり、その経緯——すなわち着想から実際の制作における様々なトラブルシューティング、そしてその作品が次の作品の着想へと至るまで(曽根の場合、ここに資金調達や制作メンバーの確保、作品の販売や売上の分配といったものまで含まれる)——は作品の周縁として扱われるか夾雑物として排除される。遠藤の指摘する「生産行為を「裏話」に押し戻す力、制作という活動を光のあたらない領域に追いやる力学」(*16)は、ここから供給されている。

 関係性の芸術において、こうしたモダニズム的な条件の解除は、個物としての作品から離れることによって、すなわちその内在的な論理を空洞化し、周囲との関係のなかで触媒的に機能させることによって実現される。いくつかの例外はあるにせよ、多くの場合そこで制作される作品は、それによって発生しうる様々な協働的活動によって相対化される。そうしてプロジェクトはプロセスへと開かれ、作品の社会性は回復されるわけだが、プロジェクトにおけるもっともファンダメンタルな水準での制作、すなわちプロジェクト自体の計画は依然として周縁化されたままである。つまりここで、協働的でプロセスに開かれた制作は、そのプロセスのなかに現れてこない周縁化された制作(=プロジェクト自体の計画)によって予め設計され、シミュレートされているのである(*17)。

 しかし曽根において、それは作品自体の制作というプロセスの徹底によって行われる。作品の計画は、それ以前の作品を含む様々な要素や、作品のプロセスに関わる人々との関係から始まる。それは工場の雇用を創出しなければならないといったきわめて現実的な問題による場合もあるし、新しいコラボレーターとの出会いによる場合もある。そうしてつくられた作品は、次の作品のインスピレーションになるのみならず、新しいプロジェクトのためのファンドレイジングに利用されたり(曽根の彫刻作品の多くにはエディション制が採用されている)、工場への新技術導入のきっかけになることによって、次なる協働の可能性へとつながっていく。『石器時代最後の夜』でも示されているように、曽根において、それは「裏話」ではなく、まさにプロジェクトそのものなのである。それは限りなく現実的で、ほとんど制度化されていないプロジェクトであるがゆえに、明確な始まりも、はっきりとした終わりも持たない。曽根は、キュレーターのハンス・ウルリッヒ・オブリストによるインタビューのなかで次のように答えている。

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト:あなたのインスタレーションは非常にしばしば未完成なままですが……。 曽根裕:インスタレーションを完成させるのは、風景を崩壊させるようなものです。(だから)わたしはあえてインスタレーションを未完成なままにしているのでしょう——。わたしは、いつかある日、こう言い得るようになりたいのです——わたしは風景のようなものだと。(*18)

 曽根の作品やインスタレーションは、完成による自律ではなく、未完成によるプロセスへと向かっている。曽根の彫刻は、未完成であることの彫刻でもあるのだ。

 前編で私は、曽根の彫刻作品を彼の一貫的な活動と結びつけて考えるほどに、私たちは彼の作品から離れてしまうと述べた。しかしいまはそれが間違いだとわかる。曽根の活動は作品を組織することではなく、作品のなかにある。だから曽根の活動を考えるためにこそ私たちは作品へと無限に接近しなければならない。彫刻への極限的な接近によって、美学的な実践は初めて社会的な実践と一致するのである。

「約束の凝集 vol.1 曽根裕|石器時代最後の夜」(gallery αM、2020)展示風景より、曽根裕《Birthday Party 1965-2020》(2020) 撮影=守屋友樹

*10──もちろんこうした造形上の問題に対しては、「建物は造形せず地形のみを造形することとする」「特定の日の海水面の高さで島を切断する」などのルールを設けることによって、一貫した無矛盾な造形が可能だが、そうして形式化された造形は、私たちが認識している香港島からどんどん離れていってしまう。曽根の彫刻の特徴は、こうした反省的な思考によって私たちの感覚を置き去りにすることなく、むしろ徹底された素朴さを起点にして制作されている点にある。
*11──本作は曽根と筆者、『石器時代最後の夜』のキュレーター長谷川新らをメンバーに含む「スタジオ四半世紀」による。
*12──長谷川新「出来事に形を与える」『曽根裕|石器時代最後の夜』(https://gallery-alpham.com/exhibition/project_2020-2021/vol1/[最終アクセス:2020年11月4日])
*13──曽根の作品における移行の原理については、すでに遠藤によって「〔曽根の作品における〕移行は、曽根がその実践の形態を、コミュニケーション労働から生産労働へ、サービス産業から手工業へと変容させたことのなかにある」と指摘されているが、本稿の着目はこの変化が形態的な変化である以上に、「不在」から「可触化」へという作品内的な原理によって駆動されたものであるという点である。(遠藤水城「大理石・彫刻・プロジェクト:ポストモダニズムにおける実践と媒体」『曽根裕| Perfect Moment』[月曜社、2011]、84頁)
*14──「読者の方々には、ここで、曽根の活動においては、一度スタートしたプロジェクトが美術館で発表するなどして「完成」となったりはまずしない、ということを留意しておいていただきたい。同じ作品 が、違うメディウム(彫刻になったり、映像になったり、油彩画、立体、パフォーマンスになったり)、違う形態や色、発表形式をとったり、さらに展開したりあるいは逆に簡略化されたり、と姿を変えて何度も何度も彼の活動に登場してくるのである」(西原珉「これまでのあらすじ」『ダブルリバー島への旅』[豊田市美術館、2002]、22頁)
*15──西原珉のテキスト(西原、前掲書、34頁)や、長谷川祐子(「長谷川祐子インタビュー」『曽根裕|Perfect Moment』[月曜社、2011] 、40頁 )のインタビューのなかで言及されているのみで、完成しておらず、発表もされていない。
*16──「曽根の中国での実践〔中略〕は、社会政治的なものであると同時に美学的な一つのプロジェクトである。だが、そこでの曽根の労働が徹底的に生産的であるというその一点が、プロジェクトを芸術作品の背景に押しやる動力になる。生産行為を「裏話」に押し戻す力、制作という活動を光のあたらない領域に追いやる力学こそ、問題化しなければならない」(遠藤、前掲書、84頁)
*17──美術史家のクレア・ビショップが『人工地獄』で論じたような「指揮された現実」(この呼称自体はアーティストのパヴェウ・アルトハメルによる)は、この意味において、作品からの離隔の極限であるといえるだろう。ジェレミー・デラーの《オーグリーヴの戦い》(2001)では、作者は指揮においてのみ機能する。そして、そうした「指揮」によって引き起こされた「現実」は、記録されることによって初めて美術館やギャラリーで展示できる形態に変換されるのである。(クレア・ビショップ『人工地獄』大森俊克訳[フィルムアート社、2016]、57頁)
*18──「ハンス・ウルリッヒ・オブリストによる曽根裕インタビュー」『ダブルリバー島への旅/曽根裕展』(豊田市美術館、2002)、128頁