いつの時代でも、その時代を象徴する都市というものがある。1910年代のウィーンと1980年代のニューヨークは間違いなく、それにあたるだろう。そしてそこには、そんな猥雑に満ちた都市の眩しい光とその陰を一身に背負った芸術家が現れる。
エゴン・シーレとジャン=ミシェル・バスキア。28年間の短い生涯を駆け抜けた時代の寵児は、いったいなにを表現していたのか。本展キュレーターのディーター・ブックハルトに聞いた。
「エゴン・シーレは、人種のるつぼであったオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンで育ちます。当時まだ巨大な帝国でしたが、その権威は徐々に崩壊しつつあり、彼はその衰退を深く感じ取っていました。そんななかでクリムトやココシュカなど、アーティストの才能が爆発的に花開いていきます。モダニズムの知的なサロンに集まった文化人のあいだでは、フロイトの精神分析など心理学がテーマとなっており、彼もつねに罪の予兆を抱えながら、生の儚さを生きていました。シーレにとって、死というものが常に生と隣り合わせにあったのです。そして、彼はその痛みの感覚や恐怖を表現するために、身体とそれを分かつ世界の境界を独自の屈折した線として練り上げていったのです。それはまさに“実存的な線”と言えるものでした」。
いっぽうバスキアは、繁栄を謳歌するアメリカのアンダーグラウンドシーンから飛び出してきた。「バスキアにとっても死はつねに隣り合わせのものでした。当時のニューヨークは市長も投げ出すような経済破綻状態で、ダウンタウンは崩壊していました。今日のニューヨークからはまったく想像できないものです。そんな環境でこそ、アンディ・ウォーホルのような掟破りのアーティストが生まれ、グラフィティのムーブメントが起き、ヒップホップが生まれ、MTVが始まり、新しいカルチャーが続々と生まれていくのです。
そんなニューヨークのブルックリンで、バスキアはブラック・アトランティックの血筋であることによる痛みを日々実感します。彼はタクシーを呼ぶことができなかった。彼女とデートしているときに知り合いが地下鉄で殺されるという事件に、『自分にも起こり得たことだ』と話すほど衝撃を受けます。そして、奴隷制・植民地主義的な差別、警察の残虐行為が起きている状況に疑問を投げかけていきます。『僕のアートの80パーセントは怒りについてだ』と話すように、彼は言葉と線を武器にして社会という肉に切り込んでいくのです。とても静かに。
幼少期に母親が見せてくれた『グレイ解剖学』に深く影響を受けたバスキアは、独自の躍動的な線でわれわれの肌を切り開き、解剖し、骨、神経、肉、歯などを華麗に晒していきます。それは見る者に、われわれはみんな平等であることを理解させたのです。なぜなら、解剖学上はあらゆる人がほぼ同一だから。そして、奴隷制やアフリカ系への差別の告発や、西洋社会の歴史や古代の芸術からマンガまで、自らの周りにあるあらゆるものをミックスさせました。こうした秩序への挑戦によって、彼はアートシーンで初めてスターに上りつめたアフリカ系アメリカ人となるのです」。
美術館で実際に二人の作品に対峙していると、「夭折の天才」といったときの熱情的な印象とは異なる体感を受ける。それは、人間の肉体へのまさに解剖家的な冷静な視線の存在だ。彼らはその逃れられない肉体の先に、どんな精神を見たのだろうか。会場では、二人の最晩年に描かれた作品も見ることができる(上画像)。この存在の痛みと呼ぶしかない、“実存的な線”を前に、少しでもその痛みが癒やされていたことを願う。そして、そのときに観る者の魂も昇華されるのかもしれない。