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2019.6.17

パラドックスのパロディ。布施琳太郎評「生きられた庭」展

京都府立植物園で1週間限定で開催されたガイドツアー形式の展覧会「生きられた庭」。作家7名による「庭」での展示を、キュレーターが毎回異なるツアーで観客を案内し、ウェブ上ではそのドキュメンテーションを行った。「ナビゲーション」と「ドキュメンテーション」を介した本展の試みを、第16回芸術評論募集佳作作品「新しい孤独」の筆者がレビューする。

文=布施琳太郎

山本修路 風景を読む 2019 © Yuuki Yamazaki
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平等な声のパラドックス

欲望する存在としての人間は矛盾に満ちている、しかしそれにもかかわらず、この欲望の本性は否定されるべきではない 「悲劇の誕生」ニーチェ(*1)

 展覧会について考えること、あるいは思い出すことは、展示された作品について考えたり思い出すこととは異なる。展覧会という状況の制作と、事物としての作品を制作することの区別が曖昧になった今日の展示芸術の領域において、展覧会に置かれた事物としての作品は、思考あるいは快楽のモジュールに堕落してしまった——ここにこそパラドックスがあるわけだが、その矛盾は乗りこなすことが可能である。

 京都府立植物園での「生きられた庭」の開催とともに、キュレーターの髙木遊は2つのテキスト(*2)を公開した。そこでは「芸術空間と植物園空間の邂逅/自然と人工という二項対立の重なり合い/生態系の一部としての人間/庭というテキスト」といったタームを立ち上げ、多木浩二やジル・クレマンの著作の存在に触れている。しかし問題は、彼がどのような美術史/人類史的な前提や価値判断に対して挑戦——あるいはどのような社会的な状況に対して問いを投げかけたり——するために、これらのタームを登場させているのかだろう。しかし残念ながら彼のテキストから問いや目的、その明確な志向性を見出すことは、僕にはできなかった。

 では実際の展覧会はどうだったのだろう。髙木は、「ナビゲーション」と名付けられた1時間程度のガイドツアーを毎日7回、計49回行った。これを出発点にしてみよう。

第一に口元に固定されたマイクと腰にぶら下げられたスピーカー越しにガイドツアーの参加者全員を対象にして発される増幅された声。この声は植物園=庭の歴史——アメリカ軍による接収や昨年の台風の影響、園長の代替わりによるキャプションの変化など——と、展示された作品の解説を縦横無尽に行き来しながら進行する一対多の声である。だがそれと同時に、彼は、彼の口元に固定されたマイクをズラして近くにいる人に話しかける。それは「お父さん、この植物園にはよく来るんですか?」「お姉さん、大学生?」「来てくれてありがとうな」などの一対一の声だ。そして彼は、ツアー参加者や植物園を偶然訪れて近くに立っていた人々の声を巻き込んで、まったくの偶然のなかで植物園=庭と展覧会を織り込みながら——おもむろに口元にマイクを寄せて作品に関する解説に復帰しながら——歩みを進め、そして手元の植物を指先で撫でる。 「『ナビゲーション』についてのメモ、2019年5月10日」(*3)
立石従寛 Abiotope 2019 © Yuuki Yamazaki

 髙木の2種類の声——いっぽうはマイクとスピーカーによる一対多の、もういっぽうは無加工のままの一対一の、声——は彼の所作によってその境界を融解させながら、目の前の植物や作品を複数の過去へとつないでいく。その過去とは植物園の歴史だけではなく、野村仁が学生だった頃の京都におけるアートの状況や、参加作家の普段の興味やこれまでの制作などに関する現代アートのマニアックな話題、あるいは鑑賞者の日常のエピソードさえ含む。このような一対多と一対一のコミュニケーション——2種類の声——のメルトダウンこそが、ガイドツアー「ナビゲーション」の特徴である。

 植物園=庭における髙木の声は植物や作品、作家、鑑賞者を区別しない。「ナビゲーション」は徹底的に平等である。これを出発点に考えると、彼のテキストに登場するタームが問いや目的ではなく、出発点であり方法であることに気が付く——そしてまた平等を志向することが、展覧会が問いや目的を持つことを困難にすることをも露呈する。

野村仁 林間のTardiology 2019 © Yuuki Yamazaki

 しかし当たり前のことだが、展覧会において平等を目指すことは、作家/作品の多様性と自由を阻害するだろう。そして「生きられた庭」のキュレーションは、平等と多様を両立させようとしたところにパラドックスを孕んでいるのだ。つまり髙木は作家/作品の集合を展覧会という国家として扱うことで1つの専制政治=キュレーションを実現しながら、その内部に形式的にも内容的にも多様性と自由を認め——複数の島国家として個別の作家に個別の土地を与え——ることで作家の自律的な専制=作品制作を手助けする。

 髙木は彼自身の身体に張り付いた2種類の声を発する。これによって京都府立植物園に遍在する多様なすべてが目的なき平等へと収斂していくわけだが、その瞬間に発生するパラドックス——平等な声と作家/作品の多様な自由の両立不可能性——の個体化こそが「生きられた庭」なのである。

牧山雄平 太陽と植物/絵を漂白する 2019 © Yuuki Yamazaki

 

パロディの穴

花々は、大地の上で、陶酔や幸福な退廃を表現している。花々は、炸裂し、光輝き、さらには、やがて彼らを枯らすことになる太陽の光のなかへ自分たちの燃え上がった頭部をそそり立たせている。 「プロメテウスとしてのファン・ゴッホ」ジョルジュ・バタイユ(*4)

 「生きられた庭」を一巡すると、展示作品の多くが「穴」を内包していることに気が付くだろう(*5)。この「穴」は高木遊が整備した平等というパラドックスのパロディである。

その箱は、片側に直径1cmほどの「穴」を開け、反対側から覗き込むことで景色がトリミングされるというシンプルな機能を持ったものだ。レンズなどは付いてない。しかしその箱を覗き込むと——視野が限定されることで——周囲の環境と状況から精神的に距離を取ることを強いられ、映像的な体験をすることができる。 「山本修司《風景を読む》についてのメモ、2019年5月14日」(*3)
前景において大きく塗り残されたキャンバスの地の白は、まばゆい光のような印象を見るものに与えるだろう。つまりその白は戸外制作特有の太陽の位置の変化を——牧山の観察が真剣であるが故に穿たれた描写の「穴」として——タブローにおけるメディウムの問題として、表出させる。 「牧山雄平の絵画についてのメモ、2019年5月14日」(*6)

 しかし僕が「生きられた庭」において、もっとも重要な「穴」だと感じたのは、石毛健太の《ただの水ではない》という作品におけるそれである。

3メートルほどの高さの白いバラックの手前には階段が備え付けられており、ちょうど2階の高さのところが小部屋になっている。何よりも意識を引くのは、その小部屋の床の中央にむかって大地から水が吹き上げられ——噴水——そこに穿たれた「穴」によってその水の頂点が頭を覗かせていることだ。その傍に設置されたモニターからは英語のナレーションが聞こえる。「悪魔のエビ」と称される存在がビデオカメラに映り込むという都市伝説——実際はシャッタースピードやフレームレートの問題で水飛沫がエビのように見えるというだけなのだが——を紹介するビデオだ。 「石毛健太《ただの水ではない》についてのメモ、2019年5月16日」(*3)
石毛健太 Not just water/ただの水ではない 2019  © Yuuki Yamazaki

 本作は髙木——あるいは展覧会——が、どこまでも平等であろうとすることで生じるパラドックスを内破する。石毛は噴水を真上から眺めるという稀有で魅力的な体験を用意し、噴水を石毛健太の名のもとで芸術作品として差し出した。しかし噴水と同時に作品のコアとなるのは都市伝説だ。

 都市伝説とは現実のパロディである。パロディは対象を笑い、あるいは恐怖の契機へと変質させる。石毛は現実の噴水の水飛沫をパロディ化することで、都市伝説のためのギミックへと下降させた。そして本作における合成音声のナラティブは「芸術空間と植物園空間の邂逅/自然と人工の重なり合い/生態系の一部としての人間/庭というテキスト」——つまり髙木がテキストで記したタームそのもの——をパロディ化する。さらに石毛が用意したナレーションの、その機械の男声は、髙木の平等な声による「ナビゲーション」さえもを——何かについて饒舌に、優しく、語ることを——茶化している。石毛の《ただの水ではない》においてその物理的な「穴」は、「生きられた庭」における専制と平等の「穴」として機能しているのだ。

石毛健太《Not just water/ただの水ではない》(2019)部分  © Yuuki Yamazaki

 平等に傾倒するキュレーションは、展覧会という、多様な作家/作品の集合によって構築される芸術の形式において——彼の倫理に則って個別の作家/作品の自律と自由を認めるとき——根本的なパラドックスを発生させる。そのパラドックスは展覧会が問いや目的を持つことを困難にする。しかしだからといってパラドックスを解消することを求めたり、否定するのは短絡的すぎるだろう。

 「生きられた庭」において展示された作品を精緻に見ていくと、展覧会のパラドックスは否定されることなくパロディ化され、1つの「形」を伴い始めているように思える。この「形」——分散的に遍在する「穴」——は展覧会のパラドックスを乗りこなすための1つの方法であるかもしれない。そういう点ではキュレーションされた展覧会という1つのパッケージセットに、大なり小なり確実に内包されるパラドックスを忌憚なく披露する髙木の平等への傾倒は、必要なことだった。つまり髙木の「展覧会によせて」の中で唯一真剣な問いであると思えるのは——より多くの人の目に触れるであろう「コンセプト」には書かれていないが——「展覧会とは何か?」というものである。それは彼の主体的な行為によってではなく、展覧会そのものによって問われている。

 しかし本稿における一連の思考の結果として僕が望むのは、パラドックスのパロディ——つまりその「穴」——が展覧会という制度的な枠組みを超えた絶対零度の強度と狂気を伴った「パルマコン(毒=薬)」として、現実の社会への侵攻を開始することである。そのための萌芽に過ぎないという点で「パラドックスのパロディ」を——つまりは「生きられた庭」を——否定すると同時に、肯定したい。

*1ーーニーチェ『悲劇の誕生』西尾幹二訳、中公クラシックス、2004
*2ーー髙木遊「展覧会によせて」『モノ・シャカ No.5』西尾太樹編、2019
髙木遊「コンセプト」「生きられた庭」ウェブサイト(2019年5月31日アクセス)https://ikiraretaniwa.geidai.ac.jp
*3ーーこれらは僕が展覧会の鑑賞の直後に書いたメモからの引用である。
*4ーージョルジュ・バタイユ「プロメテウスとしてのファン・ゴッホ」『ランスの大聖堂』酒井健訳、ちくま学芸文庫、2005
*5ーー例えば野村仁の《林間のTardiology》において積み上げられた4つの矩形は、時間をかけて潰れ、それぞれの矩形の中央に垂直に嵌め込まれたダンボール板が歪んで「穴」となることで背後の景色を覗かせる——そして最終的に「穴」はゼロになる。あるいは山本修二が植物園=庭の至るところに設置した、片側に3センチほどの「穴」が穿たれた鳥箱のような木箱。《風景を読む》と題された本作は、その「穴」を覗き込むことで——イギリスの風景式庭園におけるピクチャレスクという美学、あるいは京都の桂離宮や西方寺などと肩を並べるほどには操作的に設計されていない京都府立植物園において——流麗な映像のような視覚体験を鑑賞者に提示する。そして髙橋銑の作品《人間がニンゲンになるとき》においても、横倒しにされた円筒形のオブジェにハンマーを叩きつけることで形づくられた「穴」と、等身大の人型の「穴」が穿たれていた。また多田恋一朗の作品においては、タブローに切り株に座る様子が描かれた女性ポートレートの顔面が1つの「穴」——目鼻口の欠如——となっている同時に、そのタブローの背後では現実の15個の切り株の上に単色で塗られたキャンバス——木枠は捻られ、歪んでいる——が分散的に配されている。イメージの「穴」。
*6ーーこれは僕が展覧会の鑑賞の直後に書いたメモからの引用である。以下全文。
「戸外制作され、イーゼルの上に固定されたまま作者から手離されたキャンバスには、バラ園の景色が描かれている。画家はその画面の右下——画面の4分の1を占める——にキャンバスの地を残しながら朱色の絵具を中心にした複数の筆致——それは薄く溶かれた油絵具が刷毛で大きく伸ばされたり、あるいは指先程度の筆(あるいは指そのもの)でポンと置かれたような仕方で固定された描画——を大胆に構成することで近景の茂みを描いている。それに対して中景は——それは前景ほどには直接的な表情の幅を持たない——緑色を中心とした絵具を擦り付けるような仕方で塗り込むことで——キャンバスの目を塗りつぶしながら——刈り込みや芝生、木々を描き出す(遠景は淡い青によって塗り潰されることでそこに空があることを示すことに留まる)。また中景に描かれた植物が逆光に晒されているのに対し、その前景において大きく塗り残されたキャンバスの地の白は、まばゆい光のような印象を見るものに与えるだろう。つまりその白は戸外制作特有の太陽の位置の変化を——牧山の観察が真剣であるが故に穿たれた描写の「穴」として——タブローにおけるメディウムの問題として、表出させる。」(「牧山雄平の絵画についてのメモ、2019年5月14日」)