潮騒の手触り
ベースを背負った男が杖を使い点字ブロックをたどる。進行上にいる人々や自転車に身体をぶつけながら、足早に駅の構内を進む。駅を出て道を進むと、背後から自動車が音を立てて走り去っていく。コンビニではタッチモニターのボタンを認識できない様子を見かねて、店員がカウンターから身を乗り出す。
男はコンビニを出るとやや躊躇った様子を見せる。撮影者は呼びかける、「ここにいるよ」。男は周囲の様子を伺い、足早に車道を渡る。撮影者はその後を追うが、横からやってきた車に慌てて引き返す。自動車のゴムタイヤがアスファルトを滑る音に胸がざわつく。
「ここらへん危ないね」「怖い、しかも容赦ない」。全身で危険を察知しようとする緊張感が伝わってくる。この一連の場面は光、そして闇すらも感じたことのない男の危険なクルーズを巧みにとらえている。
この場面でハンディカムを握る佐々木誠による映画『ナイトクルージング』は、 先天性の全盲である加藤秀幸が監督となりSFアクション映画を制作する過程を追ったドキュメンタリーだ。映画監督の役割とは異なる職能のバラバラな技術をひとつの画面に統合することであるはずだ。本作は、そもそも画面を見ることのできない加藤が様々な手立てを通してそれを実現させる様子に並走する。
映画を制作するにあたり、加藤はまずいくつかのレクチャーを受ける。人間の骨格について教える自然人類学者、表情について教えるアンドロイドエンジニア、色が放射状の構造からできていると教える色彩研究家、目の見えない人のための自動車講習。加藤はこうして得た知見をもとに、美術制作を務める現代美術家の金氏徹平、制作ディレクションを務める山内祥太、脚本家、リードコンセプトアーティスト、プリビズの制作スタッフ、俳優、スタイリスト、ヘアメイクなど様々な人々と協働し、そのヴィジョンを視覚化していく。
加藤はスカイツリーやR2-D2のフィギュアを触りながら、普段知覚しているのは断片だけで、こうして全体の輪郭を把握することはないと話す。テーブル上のレゴブロックは各場面の空間に見立てられる。 あるいは3Dモデルにおける解像度の違いは、チューバッカの精巧なフィギュアと安価なソフビの対比によって示される。
こうして映画に映された空間や事物は「把握」という言葉の通り、握り・掴み、操作することのできるものとなる。加藤と映像についてのコミュニケーションを可能にするこうした手立ては本作においてとりわけ魅力を放ち、驚きをもたらす。
冒頭で描かれる不穏なクルーズのざわめきは、こうした道具の登場とともに様々な触覚に翻訳されていく。その過程で、私たちは改めて映像の手触りを獲得していくだろう。それは奇しくも、ヴァルター・ベンヤミンによって見出された映画の触覚性についてのヴィジョンを思い起こさせる。
歴史の転換期において人間の知覚器官が直面する課題を、たんなる視覚、つまり観想という手段によって解決することは全く不可能なのである。それらの課題は、触覚的受容の導きによって、慣れを通して、少しづつ獲得されていく。(*1)
さて、こうした手立てのうち、映画制作を導く鍵となる2つの道具がある。ひとつは映画の枠に見立てられた黒いフレームだ。加藤が惑星とカメラの位置を触って確かめていたことからも分かる通り、それまで加藤の映画制作において視野という概念はなく、カメラはあくまで視点の位置を示すためのものでしかなかった。黒いフレームは、カメラが切り取るその画角を、触覚的に把握するための装置として、世界に「視野」という概念を導入する。
もうひとつが、描いた線がその場で浮かび上がるレーズライターという筆記具だ。レーズライターは、絵コンテによって空間が平面になるその様を触覚によって伝える。助手席に並ぶ2人を真横から見たときに生まれる重なりは、レーズライターによって2本の稜線となる。こうして加藤は空間(3次元)と平面(2次元)の間にある距離に触れる。
この映画が秀逸なのは、あらゆる方法を尽くせば尽すほど、映画が「たんなる映画」に向かってしまうというジレンマを描いている点だろう。加藤が空間を把握する感覚をAIによって表現しようとする場面で、山内祥太がこのように言い放つのが本作のひとつのハイライトだ。「言語的すぎるし、面白くない。普通だなっていう感じがする」。
映画の終幕が近づき、佐々木の問いかけに加藤は答える。「どうですか、自分がつくった映画を見て。見て、ってあえて言いますけど」「そういうの、いらない」。加藤が監督の視点を編集し返す、意表を突くようなやりとりさえも観客に提示される。この映画の核心は、映画が完成しゆくプロセスにはない。それは映画制作というナイトクルージングが立てる潮騒の、統合されることのない手触りのなかにあるだろう。
*1ーーヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』625頁(浅井健二郎訳編、久保哲司訳、ちくま学芸文庫)