第16回芸術評論募集
【佳作】布施琳太郎「新しい孤独」【2/3ページ】

1-3 新しい貧しさ

 「幻想の触覚」は「Vtuber」において「モジュラーとしての身体」を構築する。それは主体なき時代の身体である。しかし「モジュラーとしての身体」は「Vtuber」に固有のものではない。むしろそれは今日最もありふれた身体性である。つまり「iPhone」を使用する限り人々の身体はモジュラーとして構成されるのだ。例えば「iPhone」で収集された情報群――チェーン店で提供されたパフェ、旅先で見た景色、自身の顔、恋人の指先、美術作品、政治家のマニフェスト、災害の様子など――は、それぞれの人間と結び付けられたタイムラインに集積される。

 ユーザーはタイムラインに配置された投稿を削除したり修正を加えて再投稿することを繰り返して、その見栄えをデザインする。その部品性において、タイムラインに並ぶ投稿はモジュールであり、タイムラインはモジュラーである。そして「iPhone」のスクリーンの上に、構築されたタイムラインこそが「モジュラーとしての身体」だ。それはとあるアーティストの実践によって理解することができるだろう。

 ここで紹介するのは1989年に生まれのアマリア・ウルマンという女性アーティストによるプロジェクト型のパフォーマンスだ。それはインスタグラム(*4)で2014年に行われた「Exellences and Perfections(卓越さと完璧)」である。このプロジェクトはインスタグラムの特徴である写真を中心にしたコミュニケーションによって、虚構の人格を構築することをコンセプトにしたパフォーマンスだ。このパフォーマンスについて、ファッションメディアの「SSENSE」は以下のように要約している。

4か月にわたって若い女性のさまざまな典型を演じてインスタグラムに投稿し続けたものだから、私自身も含めた多くのフォロワーは、ウルマンが「真剣なアーティスト」であることを止め、ありきたりのコースを辿り始めたのだと思った。つまり、若く、すらりとした、白人として通用する女性らしい外見を利用し、ブランド物、メイクアップ、整形手術、不良っぽい恋人、貢いでくれる中年男性、ヨガ、フィットネスを援用して、他力本願の権力、収入、注目を手っ取り早く手に入れようとしているのだと思った。 「ウルマンの虚構世界」、「SSENSE」(*5)

 しかし彼女はパフォーマンスの4ヶ月が経った後に、一連の投稿がフィクションであり、それが「ジェンダーと同じく見せかけの現実に過ぎなかったこと」を発表する。しかしインスタグラムでのパフォーマンス以前のウルマンは、写真や絵画、彫刻、文字といったホワイトキューブに伝統的に展示されてきたメディアを使用していたため、観客たちは大きく戸惑ったようである。このパフォーマンスの受容について、オンラインメディアの「RHIZOME」は「彼女の親しい友人たちはしばしば混乱していて、たとえ彼女がキーボードから離れてプロジェクトを説明しようとしても、ウルマンのソーシャルメディア(=インスタグラム)をフィクションとして現実から切り離すことができなかった」と説明している(*6)。

 以上のような「Excellences and Perfections」における一連の受容のされ方は、ソーシャルメディアにおけるタイムラインが、ユーザーであるそれぞれの人間そのものとして受け取られることを端的に示している。他者のタイムライン=モジュラーは、他者の身体/主体の混淆状態で受容されるのだ。しかしそもそも「iPhone」を使用する限り、使用者の主体は消去され続けている。つまり「iPhone」のスクリーンの上に構築されるタイムラインとは、主体なき時代の身体性である「モジュラーとしての身体」にほかならないのである。

 この作品に続いてインスタグラム上で発表されたのが「Privilege(権力)」というプロジェクトだ。これもまたインスタグラム上でのパフォーマンスである。この作品において何よりも特筆すべきなのは「Excellences and Perfections」によって「インスタグラムへの写真投稿」というパフォーマンスの形式は既知のものとなっているために、彼女の写真の一部が、インスタグラムに対する直接的な批評かつ表象になっている点である。

[図1]「Privilege」2016年1月14日の投稿
[図2]「Privilege」2016年2月23日の投稿

 [図1]と[図2]において、物理的には解体されていながらひとつの連続した身体として――日常の断片として――見えるように錯視的に構成された写真が「見せかけの現実」であるという事実は、僕がここまで説明してきた時代性の鏡として理解することができるだろう。つまり彼女は「モジュラーとしての身体=タイムライン=ユーザー」と、その構成要素としての「モジュール=個別の投稿」に、写真技術を用いて――物理的な身体の部分を交換可能な構成要素=モジュールとして扱うことで――介入したのだ。その試みは「モジュール=個別の投稿」を「モジュラー=ユーザーの身体」へと一時的に反転させる。彼女は個別の投稿のなかで「モジュラーとしての身体」を自己言及的に表象したのである。彼女が行った一連のパフォーマンスは、主体が消去された後の、主体から乖離した身体の浮遊を表現しているのだ。

 そして「モジュラーとしての身体」における、身体と主体の乖離は、未来の人間にとってはより大きな困難となるだろう。例えばゲノム編集やiPS細胞をはじめとした新しいテクノロジーによる人間のデザインと修復は、人間の解剖学的で生物学的な部分を実際にモジュールとして扱うことを可能にする。最終的に大衆は、スクリーンの上の身体ではなく、自分自身の物理的な身体そのものをモジュラーとして操作することを欲望することは想像に難くない。そこには主体と身体の乖離が発生する。あるいはベーシックインカムは、大衆の身体の生存を保証する代わりに、社会に階級差を内面化するだろう。そして画一的に保証される大衆の身体の生存は、主体の成立を阻害する。それらはここまで語ってきた「モジュラーとしての身体」における主体の消失のバリエーションである。

 身体だけが保証され、定義され、浮遊し、主体が消失する状況。こうして2016年のアメリカ大統領選挙に代表されるような、わかりやすいだけの物語=神話に大衆が傾倒することの理由もまた、明らかになる。それは近代への、主体ある時代への傾倒である。それは近代という主体ある時代への傾倒――つまり大衆が主体を失ったことの反動として現れたのだ。

 身体が危機的な状況に追いやられる過去の貧しさと異なり、主体が危機に晒されるような今日の状況を、僕は「新しい貧しさ」と名付ける。そして新しい貧しさは――主体なき時代の大衆は――近代への揺り戻しを続けるのだ。僕は「新しい貧しさ」に抵抗することができるのは新しい芸術であると考えている。なぜなら「新しい貧しさ」は社会を組織する新しい神話=芸術としての「iPhone」を起源に持つのだから。
 

抵抗論――触覚的な変質 2-1 抵抗としてのセルフィー

現在のクールな若者は、携帯を切り、家でリアリティ番組をストリーミングし、ベッドの上でセルフィーを投稿し、鬱と不安にまつわるミームをシェアする。家にいること自体がサブカルチャーになった。ひとりでいることに後ろめたさを感じないサブカルチャーだ。 「素晴らしきかな、引きこもり――徹底した寛ぎの勧め」、「SSENSE」

 1章の議論では「Lisa」から「iPod」「iPhone」に至る流れと、同時代の文化について整理した。そのなかで明らかになったのは「幻想の触覚」によって構築される「モジュラーとしての身体」と主体の消失――つまり身体と主体の乖離という「新しい貧しさ」である。しかしそもそも大衆は、主体の消去を手放しで受け入れ、抵抗もせずにたんに生き延びてきたのだろうか?

 そうではない。大衆は主体の消去に抗ってきた。それも自分の顔を自分自身の手で撮影するという方法で。つまりそれは「セルフィー(自撮り)」である。セルフィーとは「セルフポートレート」の略語、スラングであり、2013年にはオックスフォード辞典によって「今年の言葉」にも選ばれた。その際には1年前と比べてこの語の使用の回数が1万7000パーセント増えたということも報道された。その流行は2007年に発売された「iPhone」の表と裏、両面にカメラが付いていること。それがどこにいても常時インターネットへの接続が可能であること。そして様々なSNSの整備が十分に済んだことと密接に関係している。つまりセルフィーとは、たんなるカメラの流通ではなく、写真の共有=展示の気軽さによって生まれた文化なのだ。

 しかし多くの人が勘違いしているようだがセルフィーとはたんなるナルシシズムの発露ではない。それは今日の社会における最もラディカルな抵抗のひとつである。例えば、国連UHNCR協会(国連難民高等弁務官事務所)はシリア難民の移動の様子について「船上にはスマートフォンで自らの姿を写真におさめる人の姿があり、また島に上陸し、すぐさまwi-fiのネットワークを探す人の姿もおなじみの光景です」と記している。彼らが船上で自らの姿を写真に収める=セルフィーを撮るのは、家族や友人に自身の無事を伝えるだけでなく、難民申請を行う際の証明材料にさえなるからだという。彼らは自分自身の生存を証明するために、その存在の消失に抵抗するために、セルフィーを撮影しているのだ。

 さらに難民に限らず、自分で自分の姿を撮影するということは、本質的に何かへの抵抗である。先に確認したようにセルフィーとはセルフポートレイトの略語だ。その起源には1840年に撮影されたイポリット・バヤールの《溺死者に扮したセルフ・ポートレイト》という写真がある。歴史上初のセルフポートレートとされるこの写真は、自身の開発した写真術が政府に認められなかったことへの抗議として、溺死体を模して撮影されたものだ。確かにこの写真は、難民のセルフィーとは抵抗の対象が異なる。だが対象の違いはあれど、自分で自分を撮影するということが、本質的に何かへの抵抗として機能することを示すひとつの例であろう。

 そして先ほども述べたように、セルフィーとは「iPhone」の流通とSNSの整備による写真の共有=展示の気軽さが生んだ文化だ。SNSにおけるセルフィーはふたつの志向性を持っている。それは第1にナルシシズムの発露であり他のユーザーとの過剰接続を望むもの、第2に主体の消失への抵抗であり他のユーザーとの過剰接続を望まないものだ。マスメディアでは前者のセルフィーのほうが注目を浴びることが多いが、後者もまた難民に限らず、日本においても多くの人々によって実践されていることを無視してはいけない。それはSNSにおける「タグ(投稿の内容を示す目印)」の有無によって見分けることができる。

 2019年の1月の時点で、写真の共有を軸としたSNSであるインスタグラムには「#selfie」というタグが付けられた写真が4億枚近く投稿されている。そしてそれらの多くが、複数のアプリケーションで丁寧に色調が補正され、様々に彩られている。ここには自分が大衆に埋没することへの、その無名性への抵抗、つまりインスタグラマーと呼ばれる新しいタイプの芸能人になることを目指す意図が見て取れる。

 だがそれと同時に、インスタグラムをはじめとしたSNSには「#selfie」というタグが付けられていなければ、様々なアプリケーションによる画像加工も十分になされていないセルフィーも数多く存在する。ユーザーは、タグによって、SNS上にあるおびただしいほどの投稿を検索する。そしてパッと見て魅力的な投稿を指先でタップし、その投稿主のタイムラインにアクセスする。しかしタグのない写真を検索することはできない。

 ではなぜタグを付けずにほとんど無加工の自身の顔を投稿=展示するのか。それはナルシシズムの発露のためでも、不特定多数のユーザーと交流するためでもなく、自身の主体の消去への抵抗のためだ。タグのない無加工のセルフィーは――その剥き出しの身体は――「幻想の触覚」によって構築された「モジュラーとしての身体」に抵抗する。今日の社会における主体の消去に抵抗しているのは、こうしたセルフィーだ。

 自分による自分の撮影。薄暗い寝室で間接照明に照らされた顔を――あるいは一人きりの街角で斜光に照らされた自身の姿を、またあるいはラブホテルで相手がシャワーを浴びているときに部屋の鏡に映ったその裸体を――「iPhone」のカメラで撮影して、生のままでツイッターやインスタグラムに投稿するとき、彼、彼女は自分自身を定義し直す。つまりそれぞれの身体がたんに生きること、生き延びれてしまうことへの抵抗がそこにはあるのだ。

2-2 知らないを知る

 タグ付けのない無加工のセルフィーという抵抗についてより深く理解するために、ここでは最果タヒという詩人の詩の分析を行う。彼女は「iPhone」をはじめとしたスマートフォンが形成する現代社会のリアリティを高度に表象するだけでなく、その表現のメディアであると同時にこの国における近代化のメディアである「日本語」を丁寧に再―再構築しながら詩作を行う。つまり彼女の詩は「『幻想の触覚』によって解体されるミュージアムや芸術作品」という状況への抵抗のバリエーションとしても理解することができるのだ。

 ここでは彼女が2018年に出版した詩集『天国と、とてつもない暇』に所収された「白の残滓」という詩を取り上げる。それは以下の一節から始まる。

凍っていくように目が覚めたい。 光が白いのだから、それは冷たくあってほしい、 どこかで自分一人が暖かいのだと、信じていたくなる。

 1行目において想像されるのは、身体が「凍っていくように」冷たくなる様子――つまり死のイメージ――であると同時に、「目が覚めたい」という生への欲望の二重性である。続く2、3行目は、主語述語の関係による日常的な一文の終わりと同期して改行されながらも、それと同期しない奇妙な句読点が与えられている。しかしその形式的な特異性によって白い「光」という視覚情報と、「寒/暖」という皮膚感覚からもたらされる情報を、身体を介して、シームレスに接続することに成功しているのだ。このように日常的な二項対立をアンビバレントな二重性へと変奏し、一文に共存させる操作自体は、詩作においてとくに珍しいことではない。むしろ問題はそれがどのような意図と目的に基づいて選択されているかだ。それはこの詩の後半において明らかになる。以下、再び引用を行う。

真夏の部屋にはクーラーがついていて、 まぶしさと寒さがやっと釣り合う、 こんなふうに簡単に、天国を実現してしまって、 あとは行くところが地獄だけになってしまうのかなあ、 幸福な人はそう思うそうです。

 この長い一文によって、冒頭で「寒/暖」や「生/死」といった二項対立が二重性へと変奏された様子が、「天国/地獄」という異なるモチーフによって読者に刷り込み直される。これは後に続く、この詩において最も重要な一節のための準備である。

大丈夫、窓に近づくと蒸し暑く、私はガラスに手をつけて、 向こう側の私と、半分ずつ祈りを捧げている、 やわらかい体、だということを私は知らない、 硬質なつもりでこの時間をつきぬけようとしている、 その先にあるものが、新生児の私、また、やり直しの人生だとしても。

 ここで描写された「ガラスに手をつけて」という一節が「『iPhone』の画面に触れること」のメタファーであることは、最果タヒの読者にとっては自明である。なぜなら、彼女は自身のSNSに「iPhone」のメモ帳機能を用いて詩作を行う様子を繰り返し公開しているだけでなく、この詩の初出はインターネットへの投稿であるからだ。先の引用ではガラスのこちら側を「天国を実現し」た場所であり、向こう側を「地獄」であると述べている。そして「ガラス」の「向こう側」にも「私」がおり、「半分ずつ祈りを捧げている」。ここで彼女が使用する特異な句読点と改行がアクロバティックな機能をしていることが明らかになる。つまり日常的な文法に従うならば「向こう側の私と、半分ずつ祈りを捧げている、やわらかい体、だということを私は知らない」をひとつの組み立てられた文章として読むことができるだろう。しかしそれは改行によって阻害される。

 読者は句読点と改行、そして主述の関係という、3つの異なる文法的な意味の切断によって、日本語を日本語のままに読むことができなくなる。日本語からの疎外。そして三重の意味の切断に晒された読者の意識は「硬質なつもりでこの時間をつきぬけようとしている、」という言葉に至る。まるで意味の理解を諦めて日本語を――やわらかい身体を捨てて言葉という時間を――たんに目で追うことを勧められているかのようである。しかしこの長い一文はまだ終わらない。なぜならそこには読点が打たれているのだから。その後に続くのは「新生児の私、また、やり直しの人生だとしても。」という句点、文章の終わりである。ここでついに句読点においても、改行においても、ひとつの文章が終わりを迎える(そしてそれは再度始まり直すことを明示している)。

 以上のような複雑なプロセスは、形式的には主述や句読点、改行が分離しているという意味での「詩」――それは韻律によってではなく、文法によって非日常的な言語となっている――として展開される。

 この作品で最果タヒが表現したのは、生と死や視覚と触覚(=寒/暖)といった複数の二項対立を、ガラスのこちらと向こうに同時に存在できるような「やわらかい体」によって二重性へと変奏し――しかしそれ自体は「私が知らない」ことだ――それを「硬質」な体の「つもり」で「つきぬけようと」する様子である。これはGUIという「二層構造」とは異なるコンセプト、つまり「幻想の触覚」に基づいて設計された「iPhone」についての記述として理解することができる。

 つまり「ガラスのこちらと向こうに同時に存在する私」であるところの「やわらかい体」とは「ガラス=GUI」による二層構造に基づいたインターフェイス的主体である。しかし最果は、ガラスのこちらとそちらに同時に存在する「やわらかい体」を自身が持っていることを「知らない」のだと言う。そこでは「硬質な」体によって、その「ガラス」を、「この時間を」、「つきぬけようと」する。こうして「ガラス」はパーソナル・コンピュータにおける「GUI」から「iPhone」へと置き換えられる。彼女は、その「知らな」さによって、二層構造の後の「iPhone」の時代を定義する。我々はその「二層構造」を「知らない」のである。

 「やわらかい体」は、ガラスの、スクリーンの上に構築される身体だ。「ガラス=GUI」に畳み込まれた主体と客体、あるいはイメージとシンボルの二層構造。そこで人間はひとつの主体、インターフェイス的主体を獲得する。だがそのことを「私は知らない」。そして「新生児」に、「やり直しの人生」にいたらされるのである。ここには主体の消去に抵抗するヒントがある。つまりこの詩を介してここまでの議論を顧みると、それは「二層構造によるインターフェイス的主体を知らない」という問題に整理することができる。しかしたんに何かを「知らない」というのと、「知らない」と書き記すことの間には大きな違いがあることは明らかだ。我々は「知らない」を知る必要がある。

 そして「知らないを知る」ことを目指すのが「タグ付けのない無加工のセルフィー」なのである。セルフィーを撮るのは、GUIによって定義されたインターフェイス的主体の後の、消去された主体――つまり「モジュラーとしての身体」だ。その身体は主体を知らない。だが人間は自分の無知を知ることができるのだ。しかしそのためにはなにかしらの「契機」が必要だ。

 つまり「iPhone」の「Retinaディスプレイ」に――自分の網膜=retinaに――写りこんだ自分の顔は「知らないを知る」ための契機なのだ。彼、彼女たちはタイムラインという「モジュラーとしての身体」に、生の自分を差し込むことで、その身体を少しだけ変質させて孤独を取り返す。こうしてセルフィーは主体と身体の乖離――「新しい貧しさ」に抵抗するのである。

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