第16回芸術評論募集
【佳作】布施琳太郎「新しい孤独」【3/3ページ】

2-3 新しい孤独

 「知らないを知る」ための契機としてのセルフィー。それは「新しい貧しさ」――「幻想の触覚」によって構築される「モジュラーとしての身体」と主体の消去――への抵抗である。しかしそれは十分ではない。なぜなら「新しい貧しさ」はタッチスクリーンの後の時代においても人間にとって困難であり続けるからだ。つまりゲノム編集やiPS細胞によってデザイン・修復された「モジュラーとしての身体」や、ベーシックインカムなどによる身体の生存の保証のなかでも台頭するであろう「主体の消去」に抵抗する術を我々は考えなくてはならない。

 こうして今日の社会における芸術家の役割が明らかになる。つまり今日の社会における芸術家とは「新しい貧しさ」に抵抗する契機を創造することができる存在だ。つまり来るべき芸術は「自分の主体を知らないを知る」ための装置として社会のなかに位置を取る。

 そして「幻想の触覚」にすべてが一元化された時代においては、主体の消去に併せて、孤独が失われた。孤独という語は西洋近代において生まれたのかもしれないが、それは西洋近代においてのみ存在するものではない。つまり孤独は主体や個人の成立と隣接するものとして理解される。だが孤独そのものは言語より古くから人間とともにあったのだ。ここでこのテキストの最後となる作品分析を行いたい。それはフランスとスペインにまたがって遍在する後期旧石器時代の人間の遺物――洞窟壁画だ。

ショーべ洞窟の壁画

 洞窟壁画は生活から分離された洞窟のなかに描かれている。洞窟のなかは暗く、大量のコウモリが潜んでいるだけでなく、熊などの動物が眠っている可能性もある。そこは薄ら寒く、少し臭く、そして暗い。先史時代において、洞窟というのは恐怖の場であったに違いない。しかしそこで待っているのは孤独の時間――つまり自分自身との対話だ。

 洞窟壁画に中心的に描かれるのは狩りの対象となる動物である。その描線はそれぞれの動物の特徴を的確に捉えている。しかしその正確なデッサンは、西洋近代以降の人類が一般的に想像する「観察描写」とは異なる仕方で、実現されていると考えるのが自然である。つまりモチーフとなる動物は洞窟のなかに存在しないため、描画者は観察できないのだ。にもかかわらず洞窟にはあまりに生き生きとした動物が描かれている。動物たちは群れをなし、壁面を走り回っているようでさえある。

 その理由のひとつには洞窟壁画が洞窟の壁面の亀裂や隆起を利用して動物のボリュームや動きを描いていることが挙げられるだろう。実際に天井の隆起を利用して描かれたアルタミラ洞窟のビゾンについて、写真家で著述家の港千尋は「実際は描かれているというよりも、岩の内部からビゾンが盛り上がり、こちら側に突き出してくるという印象を受ける」と記述している。

洞窟画が三次元の立体像であり、複雑な壁面の形状を把握した上で、隆起や凹みを動物の身体に合致させているという点は、いまや先史時代芸術の常識とすらなっていると言えるだろう。   港千尋『洞窟へ――心とイメージのアルケオロジー』 せりか書房、2001

 そのイメージがどのようなプロセスで描かれたのかについて、港は先に引用した著作のなかで、ジョルジュ・バタイユの著作やニューラル・ダーウィニズムなどを引用しながら整理している。それは洞窟の壁面がイメージに「変質 Alteration」するという説だ。つまり洞窟の壁面にあるひび割れや起伏を「選択」し、線描によって「反復」しながら、線を「淘汰」していくことで洞窟をイメージへと「変質」させているというのだ。

 このように有機的なかたち、模様がイメージに変質するプロセスは、脳内のイメージが視覚的なパターンに投影される「シミュラクラ効果」と似ている。例えば壁のシミをジーっと見つめていたら人間の顔が見えてくる、といった経験は誰もがしたことがあるのではないだろうか。しかし洞窟壁画における変質のプロセスはこれとは異なる。「シミュラクラ効果」が視覚的なイメージの投影であるのに対して、洞窟における変質のプロセスは触覚的なイメージの投影であるからだ。つまり洞窟における孤独のなかでイメージは、触覚的かつ進化的に形成されていく。

アルタミラ洞窟のビゾンの天井画 出典=ウィキメディア・コモンズ

 このようなプロセスによって人間の記憶が壁面に投影され、なぞられたのが洞窟壁画なのであり、それがイメージに実在感を与えている。しかし洞窟のうねった壁面に投影される記憶があまりに正確なのはなぜなのだろう? 現代人が、壁面のシミが顔に見えたからといって、それをなぞれば実在感のあるイメージを描けるわけではない。

 以上のような先史美術、洞窟壁画への問いのなかで、僕の地元で日常的に狩りを行っている方に連絡を取り、そのプロセスを見させてもらう機会があった。狩りに慣れた3人の壮年の男性による解体は鮮やかなものだった。前日に内臓を抜いて、川に浸けることで血抜きをされたイノシシは、彼らの共同作業によってあっという間に、皮を剥がれて、食材としての部分へと解体されていった。

 僕はそのプロセスを、カメラを構えながらであるとはしても、集中して見ていた。にもかかわらず、まったく理解することができなかった。ひとつの身体だったイノシシが、食材と皮へと分解されている。その後、自分が撮った映像を見返していると、彼らの手さばきが、デッサンの鍛錬をする学生の手さばきと似ていることに気がついた。いや、似ているというより僕自身が何百枚もの紙の上に木炭や鉛筆を擦り付けて繰り返したデッサンと、彼らのイノシシに対するナイフさばきは、映像の上で見るとまったく同じものに見えた。

 僕が現代の日本で受けた、美術教育の基礎である(とされている)デッサンは、観察によってバラバラに知覚されたディテール=部分を、紙に木炭を擦り付けるなかでひとつのボリュームとして表現することを目的としたものである。それに対して僕が見たのは、ひとつのイノシシの身体というボリュームを、食材として名付けられている解剖学的な境界線に合わせて、ナイフによって繰り返しなぞるプロセスだ。このふたつは、木炭/ナイフによる繰り返される線のドローイングによって、対象を、ひとつの統一されたボリュームの状態とバラバラに解体された部分の状態を移行させ合うという点で――そのベクトルは違えど――同じである。つまり動物の解体は、動物のデッサンと同等に、脳内にあるイメージをスタティックなものにする鍛錬という点で有効な可能性がある。

 このことは「観察描写」が視覚に頼ったものであるということが、思い込みであることを教えてくれる。僕が横で見ていながら理解できなかったイノシシの解体とは、視覚的な情報によるものではなく、動物の解剖学的な構造を触覚的に適応するプロセスだったのである。その解体が視覚的なものであるという思い込み。それが正されたとき、先史時代の人々の卓越したデッサン力――それがデッサンの成果でないとしても――の謎が明らかになる。つまり近代やポストモダンの場合と異なり、先史時代の人々が絵を描く際には、イメージとシンボルの「ずれ」は存在しないのだ。しかし洞窟壁画は「幻想の触覚」――イメージとシンボルの混交物であるところの「モジュール」の組み替え――によって描かれるわけでもない。洞窟壁画とは、主体なき身体が、洞窟の形態を「選択/反復/淘汰」することで「触覚的に変質」させた成果物なのである。

 洞窟壁画は、その技術習得と制作のプロセスだけでなく、鑑賞においても「触覚的変質」に依存している。洞窟のなかは暗い。そこでは松明を持たなければ何かを見ることができないのだ。洞窟の奥深くに描かれたイメージ群と出会うためには、松明を手に持って進むことが求められる。洞窟はうねっており、突然に天井は低くなり、壁は隆起している。そのせいで、松明の光のもとに知覚される洞窟の形態は、手の位置の高い低いによって、ちょっとした前後によって大きく変質してしまう。視覚だけではない。足音は反響によって少し遅れているように聞こえる。つまり足の触覚的な感覚を追いかけるように音が聞こえるのだ。洞窟において多様な知覚は、触覚に飲み込まれる。

 そして動物が姿を表す。洞窟は動物へと変質する。その動物は、もはや動いてはいないが、静止してもいない。洞窟の起伏に描き出された動物は、松明のちょっとした位置によってその状態が変質する。すべてがゆらめいている。奥に進む。松明の炎は、現代の照明のように明るくフラットではないので、遠くまで明瞭に照らし出すことはできない。自分自身の移動と姿勢の変化によって、壁面に描かれた動物は姿を現したり、消したりする。――あるいは単に見るだけでなく描き足していくこともあるだろう。

 洞窟壁画における「触覚的変質」は、セルフィーにおける「自分の網膜=iPhoneのスクリーンに映り込んだ自分の顔」と同じく、孤独を取り返す手助けをしてくれる。それは自分が自分に語りかけることを、自分自身と直面することを可能にし、主体と身体の乖離に対して抵抗する。

 この抵抗によって獲得されるものを、僕は「新しい孤独」と名付ける。それは、西洋近代的な主体と客体の往還や、イメージとシンボルの二層構造によるインターフェイス的主体には依存しない。主体に依存しない孤独が「新しい孤独」である。そして最果タヒにおける「知らないを知る」とは、主体なき身体の「触覚的変質=新しい孤独」なのだ。

 つまり来たるべき芸術とは、孤独――近代的主体やインターフェイス的主体――ではなく、消去された主体と浮遊した身体によって形式や形態(=洞窟やタイムライン)を進化的に変質させ「新しい孤独」を生産するものだ。

 孤独によって芸術が生産される時代から、芸術によって「新しい孤独」が生産される時代へ。

 それが芸術の新しいテーゼである。

 

*1――水野勝仁 「インターフェイスを読む #3 GUIが折り重ねる『イメージの操作/シンボルの生成』」http://ekrits.jp/2017/08/2343/
*2――アラン・ケイ「アラン・ケイ」Ascii books、1992
*3――東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』河出文庫、2011
*4――インスタグラムとは「iPhone」をはじめとしたスマートフォンによってのみ投稿することができる写真共有を中心に据えたSNS
*5――フィオナ・ダンカン「ウルマンの虚構世界」、「SSENSE」
https://www.ssense.com/ja-jp/editorial/culture-ja/escape-from-l-a-with-amalia-ulman?lang=ja
*6――「First Look: Amalia Ulman――Excellences & Perfections」、「RHIZOME」、2014

〈参考文献〉
1-1 幻想の触覚
ヴィクトル・I・ストイキツァ『ピュグマリオン効果―シミュラークルの歴史人類学』松原知生訳、ありな書房、2006
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』栗原裕・河本仲聖訳、みすず書房、1987
マーシャル・マクルーハン+エドムンド・カーペンター『マクルーハン理論 電子メディアの可能性』大前正大・後藤和彦訳、平凡社ライブラリー、1967
レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画』堀潤之訳、2013
『インスタグラムと現代視覚文化論 レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって』BNN新社、2018
アラン・カーティス・ケイ、鶴岡雄二『アラン・ケイ』アスキーブックス、1992
柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』岩波現代文庫、2008
東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社現代新書、2001
東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007
『ゲンロンβ』ゲンロン、2016-
梅沢和木『RE:エターナルフォース画像コア』CASHI、2018
多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波現代文庫、2000
松宮秀治『ミュージアムの思想』白水社、2013

1-2 モジュラーとしての身体
「Binary Skin - Exploring Japan’s Virtual YouTuber phenomenon」Archipel、YouTube、2018
黒嵜想『ボイス・トランスレーション――“バ美肉”は何を受肉するのか?』リアルサウンド、2018
TVアニメ『Serial Experiments Lain』
伊藤亜紗『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』水声社、2013
ジャン・ボードリヤール『透き通った悪』塚原史訳

1-3 新しい貧しさ
『アーギュメンツ#3』黒嵜想+仲山ひふみ編集、2018
「ウルマンの虚構世界」、「SSENSE」、2018
「First Look: Amalia Ulman—Excellences & Perfections」、「RHIZOME」、2014

2-1 セルフィーという抵抗
ロバート・A・ソビエゼク、デボラ・イルマス『カメラアイ──写真家たちのセルフポートレイト』笠原美智子、安田篤生訳、淡交社、1995
「今年の言葉に『セルフィー』、英オックスフォード辞典」、「AFP」、2013 http://www.afpbb.com/articles/-/3003552
「『難民はなぜスマホを持っているの?』という素朴な疑問の答えから見えてくること」国連UHNCR協会 https://www.japanforunhcr.org/archives/6577
『愛してる.com』作詞・作曲・MV原案=大森靖子、2016
『マジックミラー』作詞・作曲=大森靖子、2015
『ミッドナイト清純異性交遊』作詞・作曲=大森靖子、2013

2-2 知らないを知る
最果タヒ『天国と、とてつもない暇』小学館、2018

2-3 新しい孤独
デヴィッド・ルイス・ウィリアムズ『洞窟の中の心』港千尋訳、講談社、2012
港千尋『洞窟へ』せりか書房、2001
土取利行『洞窟壁画の音』青土社、2008
デイヴィッド・ライク『交雑する人類』日向やよい訳、NHK出版、2018
ジェネビーブ・ペッツィンガー『最古の文字なのか?』櫻井祐子訳、文藝春秋社、2015
スティーヴン・ミズン『心の先史時代』松浦俊輔・牧野美佐諸訳、青土社、1998
ジョルジュ・バタイユ『ラスコーの壁画』出口裕弘訳、1975
ジョルジュ・バタイユ『ドキュマン』片山正樹訳、1974
アンドレ・ルロワ・グーラン『身振りと言葉』荒木了訳、ちくま学芸文庫
『現代思想』2018年9月号(特集=考古学の思想)青土社、2018
アンドリュー・パーカー『目の起源──カンブリア紀大進化の謎を解く』渡辺政隆・今西康子訳、草思社、2006
三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社、2018
スタニワフ・レム『ソラリス』沼野充義訳、ハヤカワSF文庫、2015
仲山ひふみ「哲学のホラー──思弁的実在論とその周辺」、2015

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