ルドン、夢に咲く花
一度、目にすれば忘れられない。一度、その前に立てば見入らずにいられない――そんな絵が、東京・三菱一号館美術館に所蔵されている。オディロン・ルドン(1840~1916)の《グラン・ブーケ》である。
現在、三菱一号館美術館で開催されている「ルドンー夢の花園」展では、ルドンの作品の中でもとくに植物というモチーフに焦点を当てたものとなっている。その見どころのひとつは、この《グラン・ブーケ》を含むドムシー城の装飾パネルがすべて揃うことにある。なぜ《グラン・ブーケ》は、見る者を惹きつける独特の力を持っているのか。そもそも、ルドンと植物とのかかわりはどこから始まるのか。展覧会出品作の紹介とともに、それらを読み解いていこう。
|心の故郷とコローの教え
1840年、オディロン・ルドンはボルドーで生まれた。だが、病弱だったために生後数日でボルドー郊外のペイルルバードの荘園に預けられ、11歳までをそこで過ごす。ブドウ園と林しかないこの地は、ルドンにとっては心の故郷と呼ぶべき場所であり、彼は成年後もしばしば創造のための思索の場として訪れ、その風景を描いたりもしている。
24歳のときには、バルビゾン派の画家カミーユ・コローと出会い、こんなアドバイスを受けた。「不確実なもののかたわらに、確実なものを置きたまえ」「毎年同じ場所に行って描くといい。同じ木を写すんだ」。これらの教えをルドンは守った。彼は画業を通じて、版画や油彩などあらゆる技法で樹木を描き続けたのである。樹木は時に単独で描かれ、時には人間や怪物など生き物の近くに描かれた。
後者の例として、2枚の作品を紹介しよう。これらの作品に描かれている「キャリバン」とは、シェイクスピアの『テンペスト』に登場する醜い怪物である。木炭画のほうでは、小柄な怪物は木の根に跨り、黒目勝ちの目に警戒心をにじませながら、こちらを振り返っている。いっぽう油彩画を見ると、毛のない胎児のような姿で表された怪物は大きな木の根元で眠りについている。その表情は穏やかで、大きな木との対比もあってか、まるで親の膝元で安らぐ幼子のようにも見える。
これらが描かれた年代には約15~20年の隔たりがあり、使われている技法や作品全体の雰囲気もまったく違う。だが、主題の他にもうひとつ共通点として、木の存在が挙げられる。木は、「確実なもの」として、空想上の存在、不確かな存在である「怪物」の近くにあって、その依り代としての役割を果たしているのである。
|友アルマン・クラヴォー
ルドンに強い影響を及ぼした存在として、もうひとり、在野の植物学者アルマン・クラヴォーの名があげられる。ルドンが彼と出会ったのは17歳のとき、ボルドーの文化的サークルにおいてだったという。
彼は、「無限に微小なもの」「知覚の限界のような世界で、(中略)一日のうち数時間だけ光線の動きによって生物として生きる神秘的な存在」(『ルドン 私自身に』、池辺一郎訳、みすず書房)を研究していた。しばしばルドンの代表作として取り上げられる『ゴヤ頌』第二葉《沼の花、悲し気な人間の顔》は、クラヴォーの著書の豆の発芽を表した挿図がもとになっていると指摘されている。
いっぽうで彼は文学や哲学にも詳しく、インドの詩や、ポーやボードレールらの詩をルドンに読み聞かせ、東洋哲学についても教えている。それらは、《若き日の仏陀》や『悪の華』の挿絵など、多くの作品を生み出す源ともなった。だが1890年、彼は自ら命を絶ってしまう。
その翌年にルドンは石版画集『夢想』を刊行し、亡き友人に捧げている。その6枚目の《日の光》を見てみよう。大きく開いた窓の外には、光の中に真っすぐに立つ木が見える。そして、手前の暗い室内をよく見てみると、人の顔にも似た白く小さな丸いものがいくつも浮き上がっているのが確認できる。それは、クラヴォーの研究分野であり、おそらくルドンにも見せたであろう顕微鏡の向こうの目には見えない世界を思い起こさせる。
また、同じ画集の1枚目にあたる、《……それは一枚の帳、ひとつの刻印であった……》は、キリストの汗を拭った布に彼の顔が写し取られたという聖顔布伝説が下敷きになっているが、ルドンはキリストの顔の代わりにクラヴォーのそれを描き込んでいる。これらを併せて見ると、様々な世界を見せてくれたこの年上の友人が、ルドンにとってどれほど大きな存在だったか、彼の思いが伝わってくる。
|《グラン=ブーケ》―夢に咲く花
1900年頃、ルドンはドムシー男爵から、ブルゴーニュ地方にある城館の食堂の装飾を依頼される。彼は全16点のパネルを制作、そのうちの1点が《グラン=ブーケ》である。この作品だけはパステルで描かれ、また「花瓶に入っている」という点など、他のパネルと異なる点が多く見られる。
縦が約2.5メートル、横が約1.6メートルという大きさも、ルドンのパステル画では他に類を見ない。実際に、前に立ったものをまず圧倒するのはその大きさであろう。そして、まず目につくのが画面のほぼ下半分を占める大きな花瓶の青である。そこから上へと視線を移していくと、花瓶の口から大量の花があふれ出す。色もかたちも様々で、ある花は画面のはるか上部に向かって伸びて傘のように広がり、ある花は下へとこぼれ落ちる。時に燃え上がる火の玉や蝶のように見える花もある。現実にある花々に似ているようでいて、何かが違っている。
何より、この花々は花瓶の中に大人しく「活けられ」「収まって」いる存在ではない。そのことは、他の画家が描いた花の絵と比較してみると、よりはっきり感じられるだろう。花瓶から溢れ、画面という枠を超えて、見る者の立っている「現実」へと侵入し、無限に伸びていく。ルドンの他の作品も見てみると、たとえ切り花として花瓶に活けられた存在であっても、いずれ「萎れる」という運命とは無縁そうに見える。
その原因のひとつとして、花が置かれている場所がはっきりわからないことが挙げられるのではないだろうか。ルノワールやゴッホの作品では、花瓶が置かれている台や、背景の壁など現実の空間を想起させるものが描かれているのに対し、ルドンの作品にはそれがない。不思議な色合いの空間の中にぽつりと浮かんでいるように見える。
ルドン自身は、花を描いた作品について次のように呼んでいる。――「再現と想起という二つの岸の合流点にやってきた花ばな」。現実の観察(再現)、そして内面から湧き上がってくる空想(想起)、その2つが合わさった花は、目に見える現実の世界のどこにもない、まさに「夢の世界に咲いている」と呼ぶべきものであろう。
「眼を閉じて」――ルドンはそう題した作品を1890年代以来何枚も描いている。今回の展覧会に出品されているのは、1904年頃に描かれたバージョンである。空を思わせる青を背景に、女性が首をわずかに傾け、目を閉じている。表情は穏やかで、外の世界から自らを遮断し、眠っているようにも、何かに静かに耳を傾けているようにも見える。
そんな彼女を取り巻く花々は、まるで彼女自身の中から生まれ出てきたかのようである。展覧会の会場を出たら、この絵に倣って、目を閉じて、今まで見てきた作品をひとつずつ思い起こしてみよう。そして、しばしその世界にたゆたってみる。そんなことを試してみてはいかがだろうか。