EXHIBITIONS
MATTER(s)
ANOMALYで、9名による展覧会「MATTER(s)」が開催されている。
本展タイトルの「matter」という語には、多くの訳語がある。「物質」「事柄」や「問題」「重要」、複数形になると「状況」「事態」といった訳になる。この語の由来はラテン語の「materia」であり、ギリシャ語では「hylē」に該当(アリストテレス哲学の「質料 - 形相」の前者にあたる語)。さらに、「materia」自身が「母」を意味するギリシャ語「mētēr」、ラテン語「mater」に由来しており、「matter」はただの物質なのではなく、何かが生まれる場であるとわかる。
本展は、この「matter」の語をキーワードに構成。作家がいかに「matter」(物質、事柄、問題etc.)と付きあい、いかに「matter」(作品)が存在し、どんな「matters」(状況、事態etc.)となっているだろうか。
会場は、淺井裕介(1981〜)の作品からスタート。淺井は土や水、埃、小麦粉、テープ、ペンなど、身近な素材を用いながら、あらゆる場所、ものに奔放に絵を描き続け、小さなドローイングから、室内を覆い尽くすオールオーバーな作品や巨大壁画まで、作品を受け止める場所や環境にしなやかに呼応するように活動。小川待子(1946〜)は、パリでの留学時に魅せられた鉱物の美しさから、「かたちはすでに在る」という考えのもと、ゆがみやひび、欠け、釉薬の縮れなどの性質を活かし、つくることと壊れることの両義性を内包した作品を生み出し続けている。
衣川明子(1986〜)は、世界を構成するすべての生命体の奥に限りなく平等な領域が広がっていると考え、擦り付けるようにして油絵具を薄く何度も塗り重ねる手法により、ぼんやりと浮かび上がり、ゆっくりと変化を続けるような生命のイメージを描き続けている。開発好明(1966〜)は、絵画、写真、映像、インスタレーションなど、表現方法が多岐にわたるアーティストだが、いずれの場合も、時代、社会に鋭い眼差しを向け、観者に自発的な考察力を促す。
高嶺格(1968〜)は、現代社会の既成概念や、多くの人が盲目的になっている問題を鋭い観察力のもとすくい上げ、ウィットに富んだ構成、身体を用いた表現で可視化し、観者に問いを投げかける。山本糾(1950〜)は「写真」という物質への探求から、光との出会いの場として水をおもな被写体に撮影を続けている。
鉄をおもな素材として制作を続ける青木野枝(1958〜)は、空間に豊かな変化をもたらし、それらは彫刻=塊という概念を軽やかに覆す。また、玉山拓郎(1990〜)は、最小限の方法で空間を異化、あるいは自然 (じねん) の理を強調することで、鑑賞者の身体感覚や知覚に揺さぶりをかける。
宇治野宗輝(1964〜)は、20世紀以降の大量生産・大量消費社会における「物質世界のリサーチ」を行ってきたが、本展出品の《ライヴズ・イン・ジャパン》では作品装置が「もの」から映像という「情報」に置換。物質がイリュージョンへと向かう現代性、彼が言う「物質マター」を考察した最初のインスタレーションとなっている。
本展タイトルの「matter」という語には、多くの訳語がある。「物質」「事柄」や「問題」「重要」、複数形になると「状況」「事態」といった訳になる。この語の由来はラテン語の「materia」であり、ギリシャ語では「hylē」に該当(アリストテレス哲学の「質料 - 形相」の前者にあたる語)。さらに、「materia」自身が「母」を意味するギリシャ語「mētēr」、ラテン語「mater」に由来しており、「matter」はただの物質なのではなく、何かが生まれる場であるとわかる。
本展は、この「matter」の語をキーワードに構成。作家がいかに「matter」(物質、事柄、問題etc.)と付きあい、いかに「matter」(作品)が存在し、どんな「matters」(状況、事態etc.)となっているだろうか。
会場は、淺井裕介(1981〜)の作品からスタート。淺井は土や水、埃、小麦粉、テープ、ペンなど、身近な素材を用いながら、あらゆる場所、ものに奔放に絵を描き続け、小さなドローイングから、室内を覆い尽くすオールオーバーな作品や巨大壁画まで、作品を受け止める場所や環境にしなやかに呼応するように活動。小川待子(1946〜)は、パリでの留学時に魅せられた鉱物の美しさから、「かたちはすでに在る」という考えのもと、ゆがみやひび、欠け、釉薬の縮れなどの性質を活かし、つくることと壊れることの両義性を内包した作品を生み出し続けている。
衣川明子(1986〜)は、世界を構成するすべての生命体の奥に限りなく平等な領域が広がっていると考え、擦り付けるようにして油絵具を薄く何度も塗り重ねる手法により、ぼんやりと浮かび上がり、ゆっくりと変化を続けるような生命のイメージを描き続けている。開発好明(1966〜)は、絵画、写真、映像、インスタレーションなど、表現方法が多岐にわたるアーティストだが、いずれの場合も、時代、社会に鋭い眼差しを向け、観者に自発的な考察力を促す。
高嶺格(1968〜)は、現代社会の既成概念や、多くの人が盲目的になっている問題を鋭い観察力のもとすくい上げ、ウィットに富んだ構成、身体を用いた表現で可視化し、観者に問いを投げかける。山本糾(1950〜)は「写真」という物質への探求から、光との出会いの場として水をおもな被写体に撮影を続けている。
鉄をおもな素材として制作を続ける青木野枝(1958〜)は、空間に豊かな変化をもたらし、それらは彫刻=塊という概念を軽やかに覆す。また、玉山拓郎(1990〜)は、最小限の方法で空間を異化、あるいは自然 (じねん) の理を強調することで、鑑賞者の身体感覚や知覚に揺さぶりをかける。
宇治野宗輝(1964〜)は、20世紀以降の大量生産・大量消費社会における「物質世界のリサーチ」を行ってきたが、本展出品の《ライヴズ・イン・ジャパン》では作品装置が「もの」から映像という「情報」に置換。物質がイリュージョンへと向かう現代性、彼が言う「物質マター」を考察した最初のインスタレーションとなっている。