ARTISTS
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ
Michelangelo Merisi da Caravaggio
カラヴァッジョは1571年イタリア・ミラノ生まれ。聖母が現れたと伝えられる巡礼地のひとつであり、信仰心の篤い人々が暮らした町カラヴァッジョで育つ。13歳のとき、当時ミラノで活躍していた画家シモーネ・ペテルツァーノに弟子入り。北イタリアに位置する町にはフランドルの文化・芸術が流入し、またミラノにはレオナルド・ダ・ヴィンチの作品が数点残されており、カラヴァッジョはこれらから写実表現を学び取りながら、17歳頃までペテルツァーノのもとで修業を積む。
92年、21歳でローマに出て、94年に人気画家カヴァリエール・ダルピーノの工房に入門。ローマでは珍しかった果物などの静物とともに少年を描いた作品でわずかな生活費を稼ぐ。95年頃制作の《いかさま師》がフランチェスコ・デル・モンテ枢機卿の目に留まったのをきっかけにパトロンを得ると、細部まで巧みに表現した花や果物をそばに置いて静物画の技量を示しつつ、少年像の名作《リュート弾き》(1596〜97頃)などを描く。同じ時期に、現存する唯一の静物画《果物籠》(1597頃)を手がけている。やがて宗教画の依頼も入るようになり、最初の祭壇画の仕事もデル・モンテ枢機卿の斡旋によって引き受ける。初期の宗教画のひとつ《ホロフェルネスの首を斬るユディト》(1599頃)は、旧約聖書で説かれた、弱者が信仰によって悪に打ち勝つことを主題とした作品。当時実際に行われた斬首を参考にしたとされ、あまりに生々しい描写は衝撃を与えた。
1600年、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会から初めて公的な依頼を受けて連作「聖マタイ伝」を制作。闇に浮かび上がる人物や明暗の表現による革新的な宗教画が評判になると、続いてサンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂から声がかかり、また有力貴族など個人からも注文が相次ぐ。聖なる者を庶民の姿に寄せた風俗画の様相は敬意が足りないと批判の声はあったもののおおむね好評で、イエス・キリストの奇跡をわかりやすく伝える手段として美術を選んだカトリック教会の求めに応じたカラヴァッジョのねらいは、劇的な宗教画によって奇跡が目前で起こっているように信者に感情移入させることであった。画壇での活躍が順調ないっぽう、私生活においては素行の悪さでしばしば警察沙汰となり、06年には殺人によってローマから逃亡。ナポリを経由し、マルタ島で騎士団に迎えられるも再び乱闘しシチリア島へ。殺人罪の恩赦を受けるためローマを目指して旅するも、不運が重なり38歳で生涯を終える。10年没。
逃亡生活でも筆を置くことなく、マルタでは自身最大の作品《洗礼者ヨハネの斬首》(1608)を完成させる。晩年の作品は画家の精神性を表すように、闇がより深く描かれている。逃亡先として2度滞在したナポリでは、カラヴァッジョに影響を受けた画家たちがナポリ派と総称され、またレンブラント・ファン・レインやディエゴ・ベラスケスら、カラヴァッジョの追随者は「カラヴァッジェスキ」とも呼ばれている。主な代表作に、《病めるバッカス》(1594頃)、《聖パウロの回心》(1601)、《エマオの晩餐》(1601)、《キリストの埋葬》(1602〜04頃)、《ロレートの聖母》(1603〜06)、《法悦のマグダラのマリア》(1606頃)、《ゴリアテの首を持つダヴィデ》(1610頃)。
92年、21歳でローマに出て、94年に人気画家カヴァリエール・ダルピーノの工房に入門。ローマでは珍しかった果物などの静物とともに少年を描いた作品でわずかな生活費を稼ぐ。95年頃制作の《いかさま師》がフランチェスコ・デル・モンテ枢機卿の目に留まったのをきっかけにパトロンを得ると、細部まで巧みに表現した花や果物をそばに置いて静物画の技量を示しつつ、少年像の名作《リュート弾き》(1596〜97頃)などを描く。同じ時期に、現存する唯一の静物画《果物籠》(1597頃)を手がけている。やがて宗教画の依頼も入るようになり、最初の祭壇画の仕事もデル・モンテ枢機卿の斡旋によって引き受ける。初期の宗教画のひとつ《ホロフェルネスの首を斬るユディト》(1599頃)は、旧約聖書で説かれた、弱者が信仰によって悪に打ち勝つことを主題とした作品。当時実際に行われた斬首を参考にしたとされ、あまりに生々しい描写は衝撃を与えた。
1600年、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会から初めて公的な依頼を受けて連作「聖マタイ伝」を制作。闇に浮かび上がる人物や明暗の表現による革新的な宗教画が評判になると、続いてサンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂から声がかかり、また有力貴族など個人からも注文が相次ぐ。聖なる者を庶民の姿に寄せた風俗画の様相は敬意が足りないと批判の声はあったもののおおむね好評で、イエス・キリストの奇跡をわかりやすく伝える手段として美術を選んだカトリック教会の求めに応じたカラヴァッジョのねらいは、劇的な宗教画によって奇跡が目前で起こっているように信者に感情移入させることであった。画壇での活躍が順調ないっぽう、私生活においては素行の悪さでしばしば警察沙汰となり、06年には殺人によってローマから逃亡。ナポリを経由し、マルタ島で騎士団に迎えられるも再び乱闘しシチリア島へ。殺人罪の恩赦を受けるためローマを目指して旅するも、不運が重なり38歳で生涯を終える。10年没。
逃亡生活でも筆を置くことなく、マルタでは自身最大の作品《洗礼者ヨハネの斬首》(1608)を完成させる。晩年の作品は画家の精神性を表すように、闇がより深く描かれている。逃亡先として2度滞在したナポリでは、カラヴァッジョに影響を受けた画家たちがナポリ派と総称され、またレンブラント・ファン・レインやディエゴ・ベラスケスら、カラヴァッジョの追随者は「カラヴァッジェスキ」とも呼ばれている。主な代表作に、《病めるバッカス》(1594頃)、《聖パウロの回心》(1601)、《エマオの晩餐》(1601)、《キリストの埋葬》(1602〜04頃)、《ロレートの聖母》(1603〜06)、《法悦のマグダラのマリア》(1606頃)、《ゴリアテの首を持つダヴィデ》(1610頃)。