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鶴岡政男

Masao Tsuruoka

 鶴岡政男は1907(明治40)年、群馬県高崎市に生まれる。22(大正11)年、太平洋画会研究所に入り、靉光、井上長三郎らと交友。30(昭和5)年、公募団体・NOVA美術協会の結成に参加する。20代の半ばから、生計を立てるため様々な職業に従事するいっぽう、左翼活動にも参加した。37年、NOVA美術協会は、特高警察の干渉が強くなり1月の第7回展をもって解散。同年、鶴岡は結婚するも、その半年後に兵役で中国へ出征することになる(40年に兵役解除)。ヒューマニズムの立場から戦争の現実と葛藤し、経済的な理由で創作活動から疎遠になっていた鶴岡は、43年、井上長三郎の呼びかけに応じ、靉光、麻生三郎、松本竣介らと新人画会を結成。国威発揚のための美術が求められるなか、新人画会の画家たちは、時局から離れたシュルレアリスム的、あるいは重く暗いテーマを扱ったリアリズムの作品を発表し続けた(なお、45年3月の東京大空襲で、それ以前の鶴岡の作品はほぼすべて焼失している)。

 46年に靉光が、48年に松本竣介が世を去った後も、鶴岡は新人画会のメンバーらとともに自由美術家協会に所属し、戦後の美術界で活躍。都市を浮浪する人々に着想を得たという《重い手》(1949)は、巨大な手の重圧を背に、うつむきしゃがみ込む人物を暗鬱たる色調で描いており、敗戦後の日本の社会像を見事に描き出した鶴岡の代表作で、53年の第2回サンパウロ・ビエンナーレにも出品された。鶴岡は50年代から60年代にかけて、数々の美術展に出品、個展も多数開催し、作家として精力的に活動。また、釣りを愛し、打楽器演奏にのめり込み、モダンジャズ喫茶で知り合った「フーテン族」の若者たちと積極的に交流したという。79年、故郷の群馬県立近代美術館において「鶴岡政男の全貌:戦後洋画の異才」展が開催され、同展会期終了から3日後の9月27日に息を引き取った。