マルセル・デュシャンが1923年に《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称「大ガラス」)の制作を未完のまま中止し、チェス・プレイヤーに転向したことはよく知られている。創作活動からの撤退は、「芸術の放棄」「沈黙」と評され、デュシャン特有のシニカルな態度か、もしくは芸術/生活の境界を融合させる企てと見なされてきた。美術評論家・中尾拓哉の初単著となる本書は、その通説に一石を投じる意欲作である。しかも、著者は一冊丸ごとをデュシャンとチェスのいまだ踏み込んで語られてこなかった関係に捧げている。「チェス」というトピックでデュシャンを語るにしても限界があるのでは?――読み進めていくうちに、そんな横槍は無意味であることがよくわかった。どうやら「チェス」は、デュシャンの初期から晩年までを貫く思考の原理であり、芸術/非芸術の区分すらもすり抜ける「造形的問題」であったようなのだ。
造形的問題とは言っても従来の絵画や造形のそれとは異なり、脳内で展開される無数のチェスの手のパターンを含み込むような、純粋で高次元の運動のことを指す。刷新された「造形」の概念は従来の美術史の枠組みを超える手で迎え撃たなければならない。そこで著者は、「頭脳戦」には「頭脳戦」で応えると言わんばかりに、数学や幾何学も駆使した作品分析に挑む。チェスに興じる人々を描いた初期タブローの画面分析、レディメイドにおける「選択」「配置」の操作とチェス駒がつくり出す運動の比較検証、20世紀初頭の美術家たちを魅惑した「4次元」の概念をチェス・ゲームに接続させる数学・幾何学的読解。デュシャン作品の最大の謎とも言うべき《遺作》(1946~1966)が、チェスにおける「エンドゲーム」になぞらえて読み解かれる終盤に至っては、デュシャンの芸術/人生が美しい棋譜として完成するのを目撃するような感慨を引き起こす。デュシャンが実際に行った対局の棋譜分析など、チェスのルールに明るくない人間には難渋な箇所もあるが、すべてはデュシャンの思考の運びに手を抜かず付き合った結果なのだろう。
デュシャンは芸術家の「創造行為」が観賞者――とりわけその芸術家の死後に現れる後世の――によって、創造過程に参与するかたちで読み解かれることを望んだが、デュシャンと著者の「対局」といった趣を持つ本書は、その望みを完遂させたと言えるかもしれない。半世紀も前に没した芸術家の頭脳と生者の頭脳が繰り広げる接戦。クールでアツい作品論だ。
(『美術手帖』2017年10月号「BOOK」より)