『AKIRA』とパルコ。「2019年」が結んだ符号
森川 始めに、私が今回のアートウォールに注目した背景を説明させてください。昨年、日仏修好160周年を記念する政府主導の「ジャポニスム2018」の一環で、パリで開催された日本のマンガ、アニメ、ゲーム、特撮に関する展示のキュレーションをしました。
与えられた会場が3500平方メートルとべらぼうに広く、そのデカい空間の使い方で悩んだ末、会場の中央に巨大な東京の模型を設置し、それを取り巻くかたちで、東京を舞台にした様々な作品を展示することにしました。というのも、日本のマンガやアニメ、ゲーム、特撮には具体的な場所を舞台にしたものが多く、とりわけ『AKIRA』のように、東京を作中に描いた作品が数多くあるからです。
パリのようなヨーロッパの都市には、何百年も前の建物や風景が残り続けています。他方で東京は、震災や戦災、さらにはめまぐるしい商業開発によって、都市風景が丸ごと刷新されるような新陳代謝を繰り返しています。すると、マンガやアニメなどは新しいポップカルチャーのように見えて、ロングセラーになると、そこに描かれた東京の風景のほうが、物理的な街並みよりも長きにわたって東京のイメージや記憶の形成に与っているという状態になる。だから「東京のリアリティ」は、フィクションと現実の都市風景が複合的に形成する状況を呈しているのだ、という仮説を立てて、そのようなリアリティを体験できる展示を目指し、タイトルを「MANGA⇔TOKYO」としました。
展示では『AKIRA』もフィーチャーさせていただき、また現実の都市風景がアニメなどのキャラクターによっていろどられる事例も集めました。その過程でちょうど今回のアートウォールを拝見して、とても注目させていただいた次第です。
小林 ありがとうございます。今回の企画の根底には、建て替え中も渋谷パルコとして情報発信をしたいという思いがあります。なので、そう言っていただけて嬉しいです。
森川 プロジェクトの始まりから聞かせていただけますか?
小林 企画のスタートはとても個人的なもので、2015年の年末くらいに、世代的にもともとファンだった『AKIRA』を再読したんですね。そこで物語の舞台が2019年だとあらためて気づき、新生渋谷パルコの開業が19年であることから、「何かあるのでは?」と符号を感じたのが最初でした。
森川 つまり、建て替え工事が行われるから、それに際して何かやろう、というところから出発した企画ではなかったんですね。
小林 ええ。誰に頼まれたわけでもなかったので、その発想は無かったですね。ただ、工事中の仮囲いがダサくなるのは、所属する会社としてイヤだなとは思っていて。それなら渋谷がどんどん瓦礫の街になるなかで、『AKIRA』の風景と重なるその状況をどうにか活かせないかと思った。そこから少しずつ、アイデアを考え始めました。
最初に思いついたのは、瓦礫の工事現場に「AKIRA」という文字を小さくペイントする案でした。工事現場のどこかに「AKIRA」と書いてあったら、最初は誰も気がつかないかもしれないけれど、誰かが発見して話が広がるのではないか。イタズラとして面白いなと思って(笑)、半年くらい寝かせていたんです。
森川 作中に登場する、球体状の極低温室のドアに「AKIRA」と書かれた、あのイメージですか?
小林 そうです。そんなある日、以前アレハンドロ・ホドロフスキーの映画の宣伝に関わった際、一緒にフライヤーをつくった河村康輔さんのことを突然思い出して、すぐ電話をしました。「パルコの工事現場に2019年まで『AKIRA』って書いてたらおもしろくないですかね?」と。河村さんは最初、「そんなことできるんですか?」という反応でしたね。
森川 「パルコ的に大丈夫なのか」という意味ですか?
小林 そうだと思います。実際、慣習的にはなかった発想ですし、僕もなんの裏も取っていない状態でしたから。しかしその後、河村さんがもともと親交の深い大友克洋さんに話をしてくれて、プロジェクトが具体的に進み始めました。
アートウォールを通じて、街のにぎわいを
森川 その後の大友先生とのやりとりはどのようなものだったのでしょう?
小林 大友さんから「一度会いましょう」と。ただ、実際にお会いするまではたしか3ヶ月ほどかかりましたね(笑)。そのあいだ、まずは社内で一緒にプロジェクトを担当した藤井浩人(パルコ メディアコミュニケーション部 *当時。現在はプロモーション部)に声をかけ、その次に実験的な企画に理解のある上司の承諾を得ました。いっぽう、建設部や開発部のような現場のリアリティがある社員からは、「それはあり得ないのでは?」という反応もありましたが、説明を繰り返して応援体制が広がっていきました。
大友さんと会ったのは吉祥寺です。河村さんも含めて食事をしながら、フランクに提案を聞いていただいた。最後は、「いろいろハードルはありますが、死ぬ気でクリアするのでやらせてください」とお話ししたら、「じゃあやろう」とご承諾いただけました。
森川 大友先生に提示した案は、すでに「アートウォール」を想定したものだったのですか?
小林 はい。大友さんへのプレゼンの際には「AKIRAリバース・スクラップ・アンド・ビルド」という言葉を持っていき、仮囲いで何かやりたいとお話しました。というのも準備を進めるなかで、仮囲いがキャンバスに見えてきたんですね。そのあたりから壁に絵を展開するという「アートウォール」のアイデアが徐々に出てきたんです。
破壊から再生へ。スクロールしていく物語
森川 そこからの具体的な制作のプロセスは、どのようなものだったのでしょう?
小林 2012年の「大友克洋GENGA展」のメインビジュアルを手がけた関係で、河村さんは『AKIRA』の多くのページのコピーをお持ちでした。大友さんが大局の方針を考えられ、河村さんがそれを受けて絵のピックアップを行い、そこから1度ラフを組み、それに対して大友さんが細かなディレクションをしながら、おふたりで素案を組み立てていきました。
最初は、全部で何章やるのかを決めていなかったんです。なので、私も含めて「12章やろう」とか「毎月変えよう」などと呑気に話していたのですが、具体化するなかで全3章に使う絵のバランスを吟味していった。それはとても編集的な作業でしたね。
森川 実施されたアートウォールを見ると仮囲いの全面ではなく、特定の部分に集中的に展開されているわけですが、絵を施す箇所については、作業開始のときから固まっていたんですか?
小林 いえ。初め私は全面に絵を展開するつもりだったですが、人から「出入り口はどうするの?」とツッコまれて、「そうだ」と(笑)。あとは屋外広告物条例で定められた使用面積や、歩道の通行の妨げにならないよう配慮しながら、使用する範囲を絞り込んでいきました。範囲が決まってからは、実際に立面図を出力して、どのくらいの縮尺感やスケールで絵を展開すればカッコよく見えるのかを考えていきました。
森川 渋谷という場所、とりわけパルコさんの今回の現場と『AKIRA』との関係を考えたときに、私がまず思い浮かべたのは、作中に登場するミヤコの神殿です。あれは明らかに現場のすぐ近くにある国立代々木競技場の建物を下敷きにしているわけですが、意外と今回のアートウォールには登場しませんね。
小林 その点は私のディレクションの範疇にありませんが、おふたりは途中からグラフィカルな判断で絵を選ばれていたように見えました。「絵がスクロールする面白さ」ということを何度もおっしゃっていたので、スクロールのドラマ感とグラフィック性を意識してつくられた結果だと思います。それと、全3章のうち2章のテーマが「破壊」なのですが、それに対して大友さんが「第3章はしっかり考える」と。おそらく、「破壊ばかりじゃ小林くんも大変だろ?」という意味だと思うのですが、破壊もあればきちんと救いや再生のイメージもあるといった全体の物語性は、意識されていたと思います。
森川 お話を聞いていると、『AKIRA』から出発したからこそ様々なことが可能になったように感じますが、他方、実施の方向へ進む段階になって、いま一度「『AKIRA』でいいのか?」という議論は社内で出なかったのでしょうか? たとえば他作家の作品を混ぜたり、代わる代わる使用したりする案は?
小林 それはなかったですね。今回の企画を見て「このアーティストもやりたい」というお話をいただくこともあるのですが、そもそもが『AKIRA』の舞台と渋谷パルコの再開が「2019年」である、という符号から始まったプロジェクトです。ほかには考えられなかった。
また、『AKIRA』が描いた東京=「破壊」というイメージが強いので、実施のハードルが高いように思われがちなのですが、じつは漫画の『AKIRA』のラストでは再生の光が差しているんですよね。この「破壊から再生へ」こそが、個人的には『AKIRA』のいちばん強いメッセージだと思っていて。それを、アートに昇華したかったんです。
「時代の転換期の象徴」としてのアートウォール
森川 「『AKIRA』でいいのか?」という議論についてお聞きしたのは、作品が大規模な破壊を描いているということもさることながら、それが1980年代の作品だからです。もちろん『AKIRA』は金字塔であり、世代を超えて読まれていますが、いまの渋谷の若者からみると、自分たちより一回り上の世代に向けた企画に見える可能性もあり得たのではないかと。そこで「いいのか?」という意見も出たりするのではないかと思ったのですが。
小林 その点は時代が味方をしてくれて、『AKIRA』のブランドは2019年に再評価されたわけではなくて、ずっと価値をキープしていますよね。驚いたのが、第1章を掲出した2017年10月に、ちょうど公園通りにある「Supreme」の店舗で『AKIRA』とのコラボレーション商品が発売されて、若いストリートの子たちの大行列が出来たんです。
森川 それはまったくの偶然で?
小林 そうなんです。僕もあとで気がつき、慌てたぐらいですから(笑)。ほかにもラッパーのカニエ・ウェストさんがニュースを聞きつけて、関係者経由で「来週、お忍びで日本に行くので大友さんに会えないか」と連絡をくれるということもありました。
実際、大友さんや河村さんと一緒に、渋谷でカニエさんにお会いしたのですが、大友さんとカニエさんがお互いの似顔絵を描き合いたりと、とても微笑ましい光景がありました。その際にアートウォールの前で撮影した写真は、カニエさんのインスタグラムで世界的に広まりました。その意味では、若い方の反応をとりわけ気にしていたわけではないのですが、しっかり伝わっているなと感じることができましたね。
森川 素晴らしい流れですね。『AKIRA』の、作品としての変わらない価値を起点に企画を展開したら、様々な偶然が重なって、想定していなかったような波及のしかたをしたと。
小林 パブリック・アートとして、とても正しい価値の付き方だったと思います。誰かが仕掛けたわけではなくて、やっぱり『AKIRA』の絵の力が呼び寄せた評価だなと。
森川 ちなみにパルコさんでは、今回の実施にあたって何かしら目標値のようなものは立てていたのですか? 社内で企画を通すにあたり、いわゆる「効果」の説明も必要だったのではないかと思いますが。
小林 コストのかかる話なので、KPI(重要業績評価指標)が求められるのは当然なのですが、今回は事業や広告ではなく再開発事業の一環なので、街のにぎわいが創出されることが主なゴールでした。いっぽう、自画自賛になりますが、我々としてはこうしたIP(知的財産)の使い方は発明だったとの思いもあります。実際、今回の企画のあとに同種の試みが増えましたし、交通広告の業界からは早くから注目していただけた。そうしたことが翻って、パルコのブランドに寄与することが、我々の本懐でもあります。
アートウォールを前に「ここ、パルコの場所だよね?」と会話が生まれ、みなさんの記憶に残る。渋谷パルコだけではなく、いま渋谷では100年に一度の規模と言われる再開発が行われていますが、おそらく東京オリンピック後の歴史のなかで、現在のことが振り返られるときには、工事ばかりだったという記憶が刻まれていると思います。その記憶の一部に、今回のアートウォールがあったらとても素敵だなと。そんな、時代の転換期の象徴となるようなプロジェクトにしたいということは、強く意識しました。
森川 実際、「破壊から再生へ」ということで言えば、これは私の解釈ですが、『AKIRA』は近未来を舞台にしつつも、そこで描かれる「ネオ・トーキョー」は、いわば「近過去」の東京を移植して創られているように見える部分が多分にあります。建設中の東京オリンピックのスタジアムとか、ドロップアウトした少年たちの暴走族とかですね。『AKIRA』が連載された1980年代は、高度経済成長が終わってすでに久しい時代でした。そのような状態の東京を物語の冒頭でいったん破壊することによって、復興と成長の熱気が冷めやらぬ60〜70年代頃の東京を、近未来に移植しているわけです。その、翌年に第二次東京オリンピックを控えたネオ・トーキョーも、再びアキラに破壊される。つまり、破壊と復興を反復させる装置としてアキラは機能していて、熱気に満ちた成長途上の状態を永続させる都市がそこに創出されているように見えます。そのような魅力が、建設現場であるということと相まって、今回のアートウォールによって敷地に注入されているように感じられます。
小林 なるほど。それ、いいですね。大友さんの作品って、たしかに若者の魂が宿っていることが一貫していますよね。物語が違うだけで、いつもたぎった何かがある。そこはパルコが大事にしてきた、若者への発信というポイントともシンクロします。
森川 加えて平成の停滞を経て醸成された、改元やオリンピックで新しい時代を迎えようという空気にもマッチしていると思います。
小林 おふたりは、あまりそうした大局的な意味については語らない方たちです。ただ、絵をつくる人には、自分の絵がいつもより大きく展開することに対して、シンプルに喜びを抱く方が多いと思うんです。今回は日本だけでなく、世界から『AKIRA』を偏愛する方たちにも来ていただいて、いままで作品に触れたことのなかった若い世代にその魅力を届けることもできた。『AKIRA』の魅力があったからこそですが、そんな風に若い人が面白がってくれる状況に対しては、おふたりとも喜ばれていたように思いますね。