今年はヨーロッパに滞在する機会に恵まれた。平日は学校に通い、放課後と土日は各地の展覧会を走りまわり、夏は目まぐるしく過ぎた。しかし公園や運河に囲まれた街並みは瑞々しく、木漏れ日の美しさにひとりごとが増えたり、ホームステイ先の庭にキツネが現れるたび胸を躍らせたり(キツネを珍しがってはしゃぐ私を、ホストマザーは珍しがって笑った)、都市生活に野生が隣接する詩的な日々だった。
「第13回 ベルリン・ビエンナーレ」は”foxing”(キツネのようなふるまい)を鍵語に、"passing the fugitive on"(逃亡性を引き継ぐ)をテーマに据えていた。公式サイトによるとキュレーターがベルリン市内でキツネと遭遇し、監視や境界を自由に超える「捉えられなさ」を、作品が制度や抑圧をすり抜ける文化的能力=”fugitivity”(逃亡性)として読み解いたとのこと。そして、ここでいう「逃亡性」に期待する作用のひとつとして”…resisting any a priori decision of what an artwork is, where it may take place, and under what conditions…”(作品が何であるべきか、どこで起こるべきか、どのような条件で成り立つべきかを先験的に決めつけることを拒むこと)を挙げており、これは派生・飛躍して、筆者が今年取り上げたい展覧会を選ぶ態度となった(*1)。
そういうわけで今回は、欧州滞在のなかで「作品」の定義や「空間」(展示方法)の規範を更新する姿勢が印象的だったものを取り上げた。それらは同時に、2025年に開館や休館といった節目を迎えた3件でもある。
開館展「All Directions Art That Moves You」(FENIX 5月15日~)

欧州最大の港であり170ヶ国以上の出身者が暮らすオランダ・ロッテルダムの湾岸倉庫が再生され、「Migration」(移住・移動)をテーマにした世界初のミュージアム「FENIX」が誕生した。「人間は存在する限りつねに移動する」という前提に立ち、開館展では100名以上の作品群が、国境や出自の分類ではなく、”Fortune"(幸福)や"Home"(故郷)といった6つの鍵語に沿って、痛みも希望も同時に積層するように展示された。施設中央を屋上まで貫通するMAD Architectsの螺旋階段「Tornado」もまた、展望台として圧倒的シンボルを演じつつ、移動の軌跡や経路の複数性を建築そのものに内在させた作品だ。1段ずつ登るうち、身体感覚を通じて「移動」を自分ごととして体験し、物語の一部となる。反移民感情が高まるなか「移動」を普遍的で共有可能な経験として提示するために設計された先進的な空間が心に残った。

V&A East Storehouse(5月31日~)

ミュージアムの舞台裏そのものを公共に開く“オープンな保存庫”「V&A East Storehouse」がロンドンで開館。25万点以上の作品、書籍やアーカイヴが、3つの切り口「COLLECTING STORIES」「SOURCEBOOK FOR DESIGN」「THE WORKING MUSEUM」に沿った解説とともに、ラックに鎮座するように展示。館内には収蔵品を修復する様子を見学できる「Conservation Overlook」も設けられ、収集、保管、研究、展示といった学芸員の役割を網羅的に鑑賞体験として組み込んだ常設展示といえる。まるで図書館のように誰もがコレクションにアクセスし閲覧を申請できる”Order an Object”は、通常よりさらに間近で作品を観察できる画期的なサービス。AIやデジタル検索が生活基盤となった2025年、「収蔵」と「展示」の制度的・空間的区分を越境的に更新し、情報の身体的な民主化に挑む姿勢に感銘を受けた。

「Wolfgang Tillmans Nothing could have prepared us – Everything could have prepared us」(ポンピドゥー・センター 6月13日~9月22日)

ポンピドゥー・センター大規模改修休館前の最終展を白紙委任されたティルマンスは、2階のパリ公共情報図書館の約6000平方メートルを会場に、パイプむき出しの天井、書棚や机、配置や動線を示すカーペットのしるしといった歴史や痕跡を意図的に残し、フロア全体を巨大で実験的なインスタレーションとして展開。35年以上におよぶ創作の軌跡をふり返る本展では、写真、映像、音楽、出版物など多岐にわたる表現や活動が、彼の私的な秩序をもって非時系列に並べられ、鑑賞者は選択と編集をうながされる。図書館で自習するように能動的に鑑賞し、写真の「真実性」がゆらぐ不確実な時代に、それでも世界を「見る」意味をゆっくりと考えた。空間の果たしてきた機能に回帰しつつ役割を更新する、別れと始まりにふさわしい展覧会だった。

*1──同ビエンナーレでは主により抑圧的な環境下における逃亡性に焦点を当てていたこと、また批判的な議論もあったことをふまえ、“foxing/fugitivity”の軽薄な援用は避けたいが、紙幅で詳細に言及できないため、ここでは筆者の私的なキツネ遭遇体験と偶然に結びついた思考の出発点としてのみ触れる



























